2012年3月28日水曜日

三國志 三國時代なんですが三國志の時代は中国の長い歴史の中でも特に優秀な人材が...

三國志 三國時代なんですが三國志の時代は中国の長い歴史の中でも特に優秀な人材が排出されたいわば人材の黄金時代だ!


プロ野球で言えば三國志の時代は松坂世代みたいなもんだと豪語してます。

人材きら星の如くとか言ってる三國志ファンがいますが本当にそうなんですか?乱世ほど優れた人物が沢山現れるんだよとか言ってます。

私も中国歴史にはそれほど詳しくはないのですが統一王朝の方が優れた人物が多い気がしますが間違ってますか?

中国統一できなかった時点で少なくとも統一王朝より人材でおとる気がしますがどうなんですか?

春秋戦国時代のほうが優れた人物が多い気がしますしこの時代は統一思想がまだ芽生える以前なので統一王朝がありませんが三國志とはその点では比較できないと思います(最終的に秦が統一しましたが)。

回答お願いします。


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別にそう決め付ける事もないかと。

乱世だからこそ活躍できる人材というのは確かにいるし、逆に治世だからこそ能力を発揮する人材もいます。

乱世をアッサリまとめて統一できるような力量の人物がいても、同時代にそんな人が2人も3人もいれば結局乱世のままですし。



要は、時代が違えば比較なんてできないという事です。

乱世には乱世の面白さがあるし、治世には治世の魅力がある。

だから歴史は全般的に面白いのです。



少なくとも、私はそう思いますが、いかがでしょうか?



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人材キラ星のごとく現れた三国時代ですか…。なじみのある人物が多い、ただそれだけでしょう。諸々の書籍からゲーム、フィギュアと幅広く目にすることができますからね。でも三国時代は長い中国の歴史の中で100年にも満たない期間です。乱世っていうのは誰でものし上がるチャンスはあると思いますよ。明の朱元璋なんて、世が平和なら出てくるはずのない人物だったでしょうね、例えばですけど。そうしたら徐達は農夫として名を残すこともなく、劉基は地方の名士として名を残したかもしれませんが。赤壁の戦いも、元末の、は陽湖がモデルとされてますから、三国志の面白みは半減したかも(笑)。歴史に出てくる人物は、乱れれば平かにしようと努力する人、それを維持あるいは発展に努める人、また、それをぶち壊す人の3タイプだと思います。平和な世に生きる人間って乱世に憧れるんでしょうか?私は平和の方が好きですから、三国時代には生まれたくなかったですね~。過去に生きた先達を批判、批評するのではなく、彼らから多くのことを学びましょう。敬意を払って。中

にはそうではない方もいますけどね(笑)。



とまあ長々しい戯れ事を申しました。


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>統一王朝の方が優れた人物が多い気がしますが間違ってますか?



正論です。



少なくとも麒麟閣十一功臣を有してた前漢の劉詢(宣帝)、

雲台二十八将を有してた後漢の劉秀(光武帝)、

凌煙閣二十四功臣を有してた唐の李世民(唐太宗)あたりの方が人材も多く。



三国志の関羽も名を連ねてる武聖七十二名将でも、

雲台二十八将と凌煙閣二十四功臣が殆どの席を占めてて、三国時代の方は

あまり入ってないようですね。



ただ日本では、武聖といえば関羽しか知られておらず。

他の時代にも目を向けようとする方が少ないので、三国志が凄く見えるのでしょう。





>春秋戦国時代のほうが優れた人物が多い気がします



でも各国と年代ごとに大きくばらけてるので、同時代1国あたりに1~2人しか

いい人材がいなかったという状況なんですよね。





興味があるなら「小説十八史略」を読んだり、ネット小説のやる夫シリーズを

読んで他の時代の人材はどういう人がいたか見てみるのがいいでしょう。

http://kutugen.blog57.fc2.com/


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乱世に優れた人物がたくさん現れるのではなく、乱世だからたくさんの人に活躍のチャンスがあるのです。話が全く逆ですね。

そして三国時代は結局どの勢力も統一にまで至らなかったわけで、そういう意味では突出した人物が現れなかったと言えます。ですから相対的には乱世から統一王朝を築いた時代の人物よりも一段劣ると言ってもいいかもしれません。

秦の始皇帝や漢の劉邦、西洋で言えばアレクサンドロスやカール大帝のような弩級の英雄は出なかったわけですから。



三国時代のおもしろさはそれこそ色んな階層、思想、性格の人物が入り乱れて虚々実々のかけひきや離合集散をくりかえすところにあるわけで、ある特定の人物を取り上げて他の時代と比べるなんてナンセンス通り越して、全くの興ざめです。


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乱世はあっちこち戦争していますから、これに関する人材は治世より多いでしょう。

逆に政治に関する人材は治世のほうが多いです。

三国志ファンは大抵戦争が好きな人です(あくまで歴史の中の戦争ですが)、だからそう言ってるんでしょう。

実際三国志演義では、政治型の人物はかなり軽視されてます(記述的)。



そして、もし戦乱がなければ劉備、関羽、張飛、諸葛亮、郭嘉、司馬懿、呂布などもずっと無名のまま一生を過ごすことになるでしょう。

実際人材は多分どの時代でも同じくらいでしょうけど、ただその人材に活躍する場所がないから、歴史に名を残る機会がないから、人々に知られたことのないまま一生を終えたかもしれません。

ファミコン版『三國志Ⅰ』の顔グラが載っているサイトをご存知ありませんか!?どう...

ファミコン版『三國志Ⅰ』の顔グラが載っているサイトをご存知ありませんか!?



どうしても見たいのです・・・やっぱり三國志シリーズも色々あるけど、このときの顔グラが一番好きです!!


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全てでは無いですが色々の顔が見れます



【顔名鑑】

http://freeserver.name/~rineisyou/sangokusi/kaomeikan.html

三国志末期にお詳しい方にお聞きたいのですが、トウガイ、ショウカイ、カクナイ、...

三国志末期にお詳しい方にお聞きたいのですが、トウガイ、ショウカイ、カクナイ、カコウハ(ショク?)って、巍の武将ではないのですか?



次の真・
三国無双6では、彼等はシバシと同じく新勢力の晋武将として出ているので



(携帯漢字出ず)


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コーエーはまた嘘を広めようとしているのですか。

トウ艾、鍾会は確かに司馬昭の息のかかった人物ではありますが、形としては魏に仕え、魏の将軍のまま死にました。郭淮は最初から最期まで魏の将軍です。夏侯霸は魏に仕え、曹爽と仲が良かったため司馬懿が曹爽をクーデターで打倒した時に蜀漢に亡命しています。



司馬昭は264年、前年に蜀を滅ぼした功績をもって晋王に封ぜられ、翌年死去します。息子の司馬炎が王位を継ぎ、魏の元帝曹奐から禅譲を受けて晋を建国します。

晋の武将と呼べるのはその後、呉の陸抗と対峙した羊コ[示古]や、呉を滅ぼした杜預・王濬・王渾などになります。



【追記】

hidaka1125さん

azarashikun1230さん

確かにおっしゃる通り、細かい話なんて判る人には判るものだし、所詮はゲームの話だから…というのは私も同意見です。

ただ、史実を詳しく知らない人は事の真偽が判らずに本当だと誤解するものです。特にゲームは幅広い年代に遊ばれるものだし、影響が強いと思うんですよ。

コーエーさんにはそういう事も含めてきちんとやって欲しいと願っているのですが、それは独り善がりの間違った考え方なんでしょうかね…。



まあ三国志と一口に言っても有名な人物は限られてますし、ある程度は仕方ないのかも知れませんが。

ちなみに文鴦は日本での知名度はほぼ無いですよ。正史『三國志』での記述もそう多くないし、日本のゲーム等で登場する事はほとんどないと思いますよ…(^_^;



hidaka1125さん、多分コーエーには正史を啓発する意図も正史に詳しい社員もきっと存在しないと思われます。なので一時期、半ば本気で入社を考えたりしたもんです(爆笑)。



そういえば『天舞』っていう正史準拠のシミュレーションもありましたっけ。リアルタイム制で難し過ぎて全く売れませんでしたが(汗)。



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事実は他の回答者さんが書かれていますから、ひとつだけ。このシリーズをすべてやっていますからわかるのですが、データベースで武将列伝や三国志の話の流れ、年表などが閲覧可能なので、「設定はこうだけど史実はこうなんだ」くらいはわかると思います。


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私もゲームでの設定の真偽なんてどうでも良いですが一応事実だけを書くなら鄧乂、鐘会、郭淮は国号が魏のまま亡くなっています 厳密に言えば他の方々や質問者様がおっしゃるとおり魏の武将です 夏侯覇にいたっては蜀とすべきでしょう

また彼らがどの国の将として戦っていたかと考えても魏でしょう(3人の意識の問題は)



では何故晋なのか 恐らく司馬氏が権力を握っていて実質は司馬氏の専横状態であり最早曹家の魏ではなくなっているから晋と勝手に分類したのでしょう ここら辺は所詮ゲームなのでムキにならないようにすれば良いんじゃないですかね



勘違いする方も出るしょうがこの程度で勘違いする方の三国志の知識はたかが知れているでしょうからどうでも良いじゃないですか 気に入らなければやらなければ良いだけですし(現に私はやりません)

勘違いする方もゲームに興味あがるだけで真の意味で厳密の知識など求めてませんよ

今回のご質問のように気になった方が事実を知る それで良いのだと私は勝手に思っています

聞かれれば事実を回答いたしますがこれに関してはどうでも良いことだと思います ゲームの真髄は楽しければ良いそれだけです



hidaka1125様>ググってきましたが文鴦が出てないのは本当におかしいですね 何ででしょう…

横山三国志とかに出ないからでしょうか… 演義視点だから後期などどうでも良いということかもしれませんね(晋や魏の分類とかも)



kanshinshunjyu様>う~ん独り善がりという概念をもってくると私のも独り善がりの範囲になってしまいますね(汗)

漢晋様のおっしゃることも分かります だから私の考えを漢晋様に押し付けるつもりはありません

漢晋様のような方がいて事実を知らない方に教えてあげること自体は悪いと思いません また憤るのも構わないと思います

ただあまり押し付けすぎるとゲームを楽しむだけの方々にとっては興醒めの場合もあるわけです そもそもゲームから入って興味が湧いたら事実を改めれば良いだけです



改めない方事実などどうでもよい方ははなから三国志マニアじゃないだけです

以前レッドクリフのお題に関しても見解を述べましたが両者行き過ぎると誰かを不快にするだけです 私はアニメやゲーム側 史実や歴史大好き側にも最大限良い結果になることつまり最大多数の最大幸福を実現できれば良いなと思っています 無論これにも問題点があるのは分かっています(漢晋様がおっしゃるように)

漢晋様は漢晋様のスタンスで良いのではないでしょうか



まあこの話題に限って言えばレッドクリフは恋愛要素など楽しめれば良いという観点は当てはまりますが魏を晋にして何が楽しくなるのかということに関しては良くわかりません 色々と都合があったのかもしれませんけど(笑)

文鴦の知名度はそんなに低いですか… う~んじゃあ出ないのも当たり前かも…(汗)



hidaka1125様 kanshinshunjyu様>歩夫人も参戦ですって…(汗)それと上記3人だけでなく諸葛誕も晋になってますよ(笑)


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別にたかがゲームの設定で嘘もヘッタクレもないと思いますが。演義ではイマイチ影の薄い後期の人物にスポットライトを当てるのは非常に良いことだと思いますよ。詐欺紛い商法大好きのKOEIにしては珍しく評価できます。さらさら買う気はありませんが、興味は湧きますね。



区分で言うなら全員魏の武将です。ていうかその連中は誰一人晋成立を目撃すらしてないですし。鄧艾も鍾会も形としては司馬昭に殺されてるわけで、晋の武将としたって無理がある。夏侯覇に至っては蜀で諡号まで贈らてる。こりゃ蜀の人間と言ったほうが妥当かもしれません。郭淮は誰がどう見ても魏の人間。子孫は晋で重用されたようですが。KOEIは司馬一族が実権を握ってるときに活躍した武将は晋の人間と区分したんでしょう。

ただ無双に出すんなら、後期なら誰を置いても文鴦が真っ先に思い浮かぶんですが…彼は出ないのかな?



・追記

まぁ無双は人気シリーズですからkanshinshunjyu様の仰るように大多数の人間は誤解するかもしれません。が、それはもう言っても仕方の無いことです。時代区分の違いなんてまだマシですよ。私が最後にプレイした無双4では、もはや演義にすら描かれてない全く架空の戦や人物が登場したりしてますんで。三国志演義は無双に限らず様々なゲームや漫画で用いられてる作品です。10作品あれば10通りの全く違う作品が出てきます。嘘や曲解なんてレベルではなく、三国志の舞台と人物だけ使った「三国志的な何か」というのがほとんど。それに対して一々ツッコミ入れたってキリがありません。「ゲームはゲーム。面白けりゃいいじゃん」で良いんではないでしょうかね。

文鴦、出ないのね…azarashikun1230様ありがとうございます。「趙雲に比される」というおいしい設定を生かせないKOEI…姜維なんかと戦わせればいいじゃん。やっぱりKOEIってダメな子…そして買う気も無い癖にイチャモンだけ付ける私もダメな子。


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史書に準拠すれば全員魏の臣下でしょうね。

一例を上げるなら、彼らは魏書に伝がある一方で、晋書には伝がありません。



しかし、ゲーム内の区分としては問題ないと思いますよ。たしかに彼らは晋の建国前に死んでいますが、一般に魏に所属していると見なされている典韋・郭嘉・曹純達も魏の建国前に死んでいます。(彼らは魏書に伝がありますが) 郭淮あたりはともかく、他は司馬一族に協力的でしたから晋の一味として扱っても良いと思います。



所詮ゲームの中の話ですから。むしろ単純化した設定だからこそ分かりやすく、三国時代末期の知名度上昇に貢献してくれるでしょう。

質問の主旨から脱線していますが、次は三国志以外の時代も取り上げて欲しいですね。


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鄧乂、鐘会、郭淮は魏。

夏侯覇は魏から蜀へ亡命。



司馬氏?司馬師?司馬師であればまだ晋公にもなっていないので晋ではない。

司馬炎が中国を統一する前に鄧乂、鐘会は死亡。

wiiのゲームの三國志11 with パワーアップキットと戦国無双3および戦国無双3猛将伝...

wiiのゲームの三國志11 with パワーアップキットと戦国無双3および戦国無双3猛将伝のゲーム内容について詳しく教えてください。できればHPのリンクなし(回答者さんの意見のみ)でお答えいただけたらうれしいです。


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三国志11withパワーアップキット

こちらは三国志のシュミレーションゲームです。

自分が君主となって国を作り、

戦争では戦法や計略を駆使して中国の覇権を争う。

的な感じですね。



戦国無双3

こちらは戦国時代を舞台にしたアクションゲームです。

戦国武将を自ら操作して一騎当千の爽快感を味わう。

織田信長を使って本能寺の変で明智光秀を自ら討つ。

なんてことも可能です。



戦国無双3猛将伝

こちらは戦国無双3の追加要素を入れたソフトになります。

猛将伝だけでもプレイは可能ですが、

なにより追加要素しか入ってないので、

(3で無双演舞【各武将に用意されたストーリーモード】

が無かった武将の無双演舞が入っていて、

3でプレイ可能な武将の無双演舞が入っていない)

普通は戦国無双3と両方買うのが定義となっています。



余談ですが、戦国無双3に戦国無双3猛将伝の要素を入れたソフトが、

戦国無双3Zです。

三國志の東夷伝にある倭国のトコ、つまりは魏志倭人伝なんて勝手大層な名前で呼ば...

三國志の東夷伝にある倭国のトコ、つまりは魏志倭人伝なんて勝手大層な名前で呼ばれてるやつですが、なんだか読んでみると、
卑弥呼が貢物を届けるに至った経緯は遼東を平定したからであって、司馬氏の手柄によってわざわざ海を渡って他国が媚びてきたって自慢話ですよね。

王朝の祖を誉め称えて書きたい陳寿の意図が感じられて、嘘臭いです。卑弥呼伝説を日本で信じてる人って多くて、高度な文明が邪馬台国にはあったと信じてる人たくさんいますが証拠は何も出ていないし、陳寿の超誇張だと感じたのですが、皆さんは如何ですか?

たくさんの意見が聞きたいです。よろしくお願いします。


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御指摘

三國志の「東夷伝」とする御質問をなさる限り、貴殿に、陳寿の誇張かどうか、回答しても、おわかりになられるかどうか疑問ですね

もう少し御勉学したらいかがでしょうか?



御指摘

正式な名称は『魏志倭人伝』で「東夷伝」は『後漢書』などです

あなたがオススメの三國志、戦国時代(日本)の本教えてください。 小説、漫画問い...

あなたがオススメの三國志、戦国時代(日本)の本教えてください。

小説、漫画問いません。



ただし正統派のものでお願いします。



よろしくお願いしますm(__)m


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三国志の小説では、

■吉川英治『三国志』…やはり三国志小説の決定版でしょう。血わき肉おどる物語!

■三好徹『興亡三国志』…曹操を中心に描いた三国志小説の傑作。

■陳舜臣『諸葛孔明』…孔明の実像がよくわかります。三国志演義や吉川三国志は面白いけれど嘘っぽいなと感じたら、この作者の『秘本三国志』がオススメです。リアルな歴史小説になっています。



戦国時代を描いた歴史小説では、

■南原幹雄『謀将 北条早雲』…戦国の幕をあけた梟雄

■永井路子『山霧』…毛利元就とその妻

■新田次郎『武田信玄』

■海音寺潮五郎『天と地と』…上杉謙信

■宮本昌孝『ふたり道三』…斎藤道三

■宮本昌孝『剣豪将軍義輝』…足利13代将軍義輝。さまよえる無力な将軍が成長するさまを感動的に描く。私の大好きな作品。

■津本陽『下天は夢か』…織田信長

■羽山信樹『光秀の十二日』…明智光秀の最後の12日を描いた凄みのある傑作。あまりに辛く悲しいので、読後しばらく意気消沈してしまった。ほかに同じ作者の『滅びの将』『夢狂いに候』もオススメ。

■山田風太郎『妖説太閤記』…豊臣秀吉

■野上弥生子『秀吉と利休』

■荒山徹『高麗秘帖』…李舜臣。秀吉の朝鮮出兵を朝鮮側から描く。前半やや冗長だが最後の海戦シーンが圧巻。

■司馬遼太郎『関ヶ原』…関ヶ原の戦い

■隆慶一郎『影武者 徳川家康』

■佐竹申伍『真田幸村』…大坂の陣の描写など大迫力。この作者の作品もなかなか面白く、ほかに『島左近』『蒲生氏郷』『加藤清正』。



戦国時代を描いた漫画

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1330560163





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戦国時代(日本)でしたら、司馬遼太郎氏の以下の作品がオススメです。

妖怪・・・応仁の乱勃発の背景がわかります。

箱根の坂・・・戦国時代開始の背景がわかります。

国盗り物語・・・戦国真っただ中の様子がわかります。

新史太閤記・・・豊臣秀吉の生涯における機智等がわかります。

関ヶ原・・・決戦に到る過程も含めてわかります。

城塞・・・関ヶ原後、大阪の陣決戦までの様子がわかります。

以上総じて司馬氏の作品は、人物や社会背景等々についての洞察の深さが抜群で、単なる歴史書などというものではなくて人生教訓書そのものという感じですので、オススメできます。


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戦国時代なら、司馬遼太郎氏の「関ヶ原」が好きです。

関ヶ原以後なら、漫画ですが、みなもとたろう氏の「風雲児」がお勧めです。

全巻読めば、関ヶ原~明治維新までの歴史は大体把握出来ます。

位置づけはギャグ漫画ですが、読み込むと骨太の大作です。


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小説でいうならまずは吉川英治さんの「三国志」は外せないですよね。北方謙三さんも「三国志」を書いてましたね。あとは「呉三国志」という呉の国を描いた作品もあったような。

マンガは横山光輝さんの「三国志」が有名ですが、ストーリーは吉川英治さんのものとほぼ同じです。

「蒼天航路」という作品は曹操を主人公に描いた意欲作で、既成概念の枠を超えた三国志が楽しめます。



以上、三国志ファンの王道ルートをご紹介させていただきました。

三國志の質問です 1、袁術、袁紹は仲が悪いのですか? 2、袁術配下の楽就、陳...

三國志の質問です



1、袁術、袁紹は仲が悪いのですか?



2、袁術配下の楽就、陳紀、梁綱、橋ズイ、李豊、韓イン、袁紹配下の文遠(?
)、韓猛について、経歴、字等紹介していただきたく思います


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Q1.袁術、袁紹は不仲?

A1.不仲だったとされます。



後漢末、袁家は名家でした。

そのなかでも、「袁紹」(兄)の評判が良かったものの、

彼は妾の子であり、

本妻の子である(とされる)「袁術」(弟)は、それが面白くなく、

自分こそが名門袁家の嫡流であると自認していたようです。



「正史」には袁紹と袁術の対立の理由は述べられていませんが、

袁術は当初から、

袁家が後漢帝国から簒奪して繁栄する事を目指していたようですが、

袁紹が皇室と同姓の「劉虞」を擁立しようとしたことから、

袁紹と袁術のいがみ合いが始まります。



優柔不断でお坊ちゃまの袁紹と、

自己中心的な考え方を持った袁術では、

所詮水と油だったのでしょう。



袁術は、皇帝を自称して結局は破滅の道を歩んでいきますが、

皇帝に成るだけの地盤と勢力.実力(?)を持ちながら、

結局躊躇して、機会を逸して破滅する袁紹。

対照的ですね。



袁術は、197年寿春で帝を僭称し仲氏と号しますが、

同盟を組んでいた呂布や、曹操と相次いで敗れ、

壊滅状態となり、

袁紹を頼るため帝位を贈った上、

袁紹の長子袁譚のもとに身を寄せようとした途中で発病。血を吐いて死にます。

絶交状態にあったとはいえ、最後には兄袁紹を頼らざるを得なかったのは、

ある種哀れですね。

袁術の蜂蜜好きなのは有名です。



Q2.袁術.袁紹配下の部将のプロフィール

A2.

『袁術配下』

名前が挙げられていませんが、袁術配下といえば、この人は外せないので



【紀霊(きれい)】生没年不詳。



紀霊は3万の軍を率い、小沛の劉備を攻撃しました。

呂布は紀霊と劉備の仲裁に出て、

遠距離にある戟の小枝(胡)に射当てたら軍を引き上げよ、と申し渡し、

見事そこに矢を当てます。

演義では、

重さ50斤の三尖刀の使い手として登場します。

関羽との一騎打ちで30合余り互角に戦いました。

最後は、張飛との一騎打ちで10合余り渡り合った後に討ち取られます。



【橋蕤(きょうずい)】生年不詳~197年



張勲と共に大将軍に任じられたとされます。

陳国に侵攻しますが、曹操に敗れ斬られました。

演義では、

曹操、劉備、呂布、孫策による袁術討伐が開始されると、

寿春を守備したものの、戦死しています。



【楽就(がくしゅう)】生年不詳~197年



197年、陳に残留しますが、

曹操に敗れ楽就他の3人と共に斬られました。

演義では、

曹操は寿春に攻勢を欠け、

李豊、陳紀、梁剛、楽就は守りますが陥落し、

4人の武将は全員斬首されました。



【陳紀(ちんき)】生没年不詳。



正史では、袁術が孫策に約束していた九江太守に任命する件を反古し、

代わりに任命されたのが陳紀です。

演義では、

呂布を討伐の際、陳宮率に迎撃され、敗れています。

寿春城の攻防戦でを曹操軍の猛攻の前に敗北し斬首されます。



【李豊(りほう)】生年不詳~197年



李豊・梁綱・楽就の3将で陳国に残留しますが、

曹操軍に敗北して戦死します。

演義では、

呂布に対して槍をとって立ち向かいますが、

呂布の画戟を利き腕に受け、敗走します。

寿春城の攻防戦でを曹操軍の猛攻の前に敗北し斬首されます。



【梁綱(りょうこう)】生年不詳~197年



演義では「梁剛」で登場します。

寿春城の攻防戦でを曹操軍の猛攻の前に敗北し斬首されます。



【韓胤(かんいん)】生年不詳~197年



呂布との同盟を結ぶため韓胤を派遣します。

呂布の娘を袁術の息子の嫁に縁談を申し入れますが、

捕らえられ、曹操に引き渡しされ斬首されます。



『袁紹配下』

【文醜(ぶんしゅう)】生年不詳~200年・・文遠?



袁紹が韓馥から冀州を奪う際、韓馥配下の関純を斬り殺します。

公孫瓚を一騎打ちで破って追撃。

趙雲と一騎打ちになり、五、六十合しても勝負がつきませんでした。

官渡の前哨戦で、顔良の仇討ち戦で孤軍奮闘し、

張遼を落馬させ、徐晃を撃退しますが、

関羽に討ち取られてしまいます。

正史では、誰に討たれたという記述は無く、文醜は乱戦のなかで戦死します。



【顔良(がんりょう)】生年不詳~200年



正史では、関羽は馬に鞭打って掛けつけ、

大軍の真っ只中で顔良を刺し、首を切り取って陣に戻ったとされます。

官渡では劉備と共に出陣し、

宋憲、魏続 を討ち取り徐晃を敗走させます。

しかし関羽に一刀に斬って落とされ、首を取られます。



【韓猛(かんもう)】生没年不詳



官渡の戦いで、

曹操軍の西方の交通を遮断する役目でしたが、曹仁に撃破されます。

さらに、袁紹軍の兵糧の運搬を警護する役目を担いますが、

輸送車を焼き払われます。

演義では、その件で袁紹の怒りを買い雑兵に降格されます。



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とりあえず1についてだけ回答させて頂きます。



袁紹、袁術は異母兄弟で、袁術が嫡出子、袁紹は庶出でした。



しかし袁氏本家に跡継ぎがいなかった為、袁紹が養子に入って本家を継いだ為、



分家の嫡子(のちに当主)となった袁術と立場が逆転してしまいました。



袁術は庶子の袁紹が本家当主となったことを激しく嫌い、関係が険悪になったそうです。

三國志の張角について詳しく知りたいのですが…。 彼を教祖とする太平道の教義等に...

三國志の張角について詳しく知りたいのですが…。



彼を教祖とする太平道の教義等について詳しく載っている書籍をご存知でしたらお教え願えないでしょうか?




また、張角自身に纏わる伝説などがございましたら、そちらもお教え頂けますと幸いです。


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太平道と五斗米道はかなり似た教義とされています。

太平道の教義である太平清領書は現在に残っていないようですが、五斗米道は次代を経て正一教という道教の一派として現在に残っています。

ということで道教・正一教を調べてみてはどうでしょうか?



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太平道とは、于吉によって創始された太平経(太平清領書)を張角が受け継ぐことにより太平道となり、宗教結社に発展し、五斗米道(張陵)と共に後漢末の社会反乱の一翼を担うに至ったのですが、中平元年(184)黄巾の乱が制圧され張角兄弟とその一党が壊滅すると共に短期間で姿を消します。その教法の一部は五斗米道に受継がれたといわれており、さらに北魏時代には寇謙之によって教団道教(天師道)となり北魏の国教となったものであるといわれています。

また、現在の正一教(道教)は後漢時代の五斗米道に遡るといわれている事はxxxx_xxxx_xxxxx_0000さんのご指摘のとおりです。



太平道の教義等について現存している書籍はないと思います。 張角自身に纏わる話は、伝説と言うほどの内容ではありませんし、あまり多いとは言えませんが、以下の書籍中に張角、于吉と「太平清領書」、太平道と五斗米道、「太平清領書」と張角 等の事が載っています(一部読み下しで入れてあります)。



『後漢書』孝霊帝の中平元年(184)、『後漢書・列伝・皇甫嵩』、『三国志・呉書・孫策伝』、『三国志・魏書・張魯伝』、『後漢書・襄楷列伝』、『資治通鑑・漢孝獻帝建安六年』、『資治通鑑・宋營陽王景平元年・寇謙之』、『中国仏教史・第一巻』鎌田茂雄 東京大学出版会



『後漢書・列伝・皇甫嵩』

「鉅鹿の張角、自ら大賢良師と稱し、黄老道に奉事し弟子を畜養す。跪拝首過し符水呪説を以て病を療し、病者頗る愈ゆ。百姓之を信じ向ふ。角、弟子八人を四方に遣はし善道を以て天下を教化し、転た相い誑惑す。十餘年閒に衆徒數十萬、郡国に連結して青・徐・幽・冀・荊・楊・兖・豫八州の人、畢(コトゴト)く應ぜざるは莫く、遂に三十六方を置く(方とは將軍號也)。大方は萬餘人、小方は六七千、各渠帥を立てる。訛言して「蒼天已に死し、黄天當に立つべし、歳は甲子に在り、天下大吉」と。白土を以て京城寺門及び州郡官府に書し、皆甲子の字を作る。中平元年(184)、大方馬元義等、數々京師を往來し中常侍封諝・徐奉等に内應させ、三月五日を以て内外倶に起たんと約す。未だ作亂に及ばずして事露われ、元義は洛陽で車裂、宮省直衞及び百姓の張角の道に事へる者千餘人を誅殺す。張角、晨夜に馳せて諸方に勑し、一時に倶に起つ。皆な黄巾を著け標幟と為し、時の人、之を黄巾と謂い、亦名づけて蛾賊と為す。」

*中平元年(184)黄巾の乱は皇甫嵩に制圧され、張角の兄弟は処刑、既に病死して葬られていた張角の墓は発かれ棺を剖き屍を戮し首は京師に送られた。結果として太平道は短期間で姿を消します。



『資治通鑑・漢孝獻帝建安六年』『三国志・魏書・張魯伝』

「太平道では、師が九節杖を持って符祝し、病人は跪いて叩頭し、罪を懺悔し、師は之に符水を飲ませる。病が早く治れば、則ち此人は道を信ずと云い、愈ざれば道を信ぜずと云ふ。」

一方、同年代の道教である五斗米道は「妖術を以て人の為に病を療し、病家は治療してもらうと五斗の米を出したので、五斗米師といった」とあり、其の教義は張角の太平道とほぼ同じであるとも書かれています。



『後漢書・襄楷列伝』 太平道の祖・于吉の事(『三国史演義』では于吉仙人)。

「初め順帝の時、琅邪の宮崇が闕に詣り、其師于吉が曲陽泉水上に於いて得し所の神書百七十巻を上る。皆縹白素・朱介・青首・朱目にして「太平青領書」と號す。其の言は陰陽五行を以て家と為し、而して巫覡の雑語多し。有司、宮崇の上る所は妖妄不經なりと奏し、乃ち之を収臧す。後に張角頗る其書を有す。」



『三国志・呉書・孫策伝』

時に琅邪に于吉といふ道士有り。先に東方に寓居し呉會に往来し、精舎を立てて焼香し、道書を讀み、符水を制作し以て病を治す。呉會の人多く之に事ふ。

『志林』に曰う、初め順帝の時(126~144)、琅邪の宮崇闕に詣り、師于吉が曲陽泉水上で得たという神書を上る。白素・朱界にして「太平青領道」と號す。凡そ百餘巻。順帝から建安中(196~219)に至るは五六十歳、于吉は是時、已に百年に近し。



『資治通鑑・宋營陽王景平元年・寇謙之』

崇山の道士寇謙之、張道陵(後漢の人で五斗米道の天師)の術を修め、自ら言ふ、嘗て老子の降るに遇へり。謙之に命じ、道陵に継ぎて天師と為らしめ授くるに辟穀軽身の術及び科戒二十巻(今の道家の科戒は此に始まる)を以てし、之をして道教を清整せしむ。」



追記:現在の正一教が後漢時代の五斗米道に遡るといわれているとしても、そこから五斗米道の教義を知ることも、ましてや短期間で滅びてしまった太平道の教義の片鱗すら知ることは難しいと思います。何しろ1800年も前のことですから。

『三国志・魏書・張魯伝』『資治通鑑・漢孝獻帝建安六年』等の張魯・五斗米道から太平道の教義と共通する部分を探すほうが近道ではないかと思いますが、如何でしょう?

五斗米道の説明には、随所に“ほぼ太平道に同じ…”の文言があります。

三國志で登場する一騎当千の猛将 関羽 張飛 趙雲 彼等は一度 戦場に出たら何人...

三國志で登場する一騎当千の猛将

関羽

張飛

趙雲



彼等は一度 戦場に出たら何人ぐらいの人を殺していたのでしょうか…?




人を百人斬るのも想像を絶するほど難しいと思うのですが 実際は戦場で何人ぐらい斬っていたのでしょう…?


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結論から申し上げると、実数は分かりません。まあ少なくとも真・三國無双みたいな事にはなってないのは確実です。



何故分からないかですが、単純に誰も数えていないからです。



質問者さんはおそらく、単純に素朴な疑問を持たれてこの質問をされたのだと思いますが、殺らなきゃ殺られる戦場では殺るのが当然だし、殺したかどうかが重要になるのは将官だけなので、誰も一般兵まで気にしたりしないんですね(^_^;

あと、戦果としての敵軍の死者数などは記録されますが、普通は実数より誇張して記録されるので当てになりません。



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昔、とんねるずの番組で石橋扮するホモ侍が連続100人斬りをしていましたが、ヘロヘロになってました。体力的には100人が限界でしょうか?



あと、生身の人間を斬ると得物が骨に当たって刃こぼれを起こすし、10人も切るとボロボロになって使い物にならないみたいですよ。




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具体的な数字はわかりません。個人の武勇を想像する材料は…



・張飛が手勢を率いて曹操軍を前に橋を落としてわめくと、曹操軍は誰も近づけなかった



・前漢創成期のバケモノ、項羽は、死ぬ前に数百人斬った(@史記)



項羽の記述はさすがに誇張だと思いますけどね(笑)張飛なら項羽並みに頑張ったんじゃなんかと想像しています。


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何人ぐらい斬ったというのは史実にも詳しくは

ないと思いますが各将の凄さを表しているものはあります。



関羽・・・五関の六将を斬る。劉備の元へ帰るために通った五つの関所を通過する際に

六人の将を一瞬で斬り捨てていった というものです。



張飛・・・「一万の兵に匹敵する」と恐れられた将です。

有名なのは長坂橋で曹操軍が押し寄せる中、たった一騎で仁王立ちし

曹操に一括する場面です。



趙雲・・・戦場で逃げ遅れた、劉備の息子の阿斗を懐に抱き、そのまま戦いながら劉備の

元へ連れ帰ったそうです。赤ん坊を抱いたまま戦うなんて凄いですね。



というような感じです。詳しい詳細はまた本を読んでみてください。面白いですよ。

趙雲が助けた阿斗は後に蜀を・・・。趙雲が少し可哀そうに

思ってしまいました^^;

質問があります。 吉川英治の三国志と北方謙三の三国史は内容がどう違うのでしょう...

質問があります。

吉川英治の三国志と北方謙三の三国史は内容がどう違うのでしょうか。

演技基準より正史を題材にした物を読みたいと思っているのですが?


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吉川三國志は、演技ベース(桃園の誓いなどあり)で、北方三國志は、正史ベースですが、作者色がめちゃくちゃ強く(漢の生きざまを追求している)、オリジナルキャラクターも出てきます。



PC版 三国志Ⅹ with パワーアップキットの新武将登録

PC版 三国志Ⅹ with パワーアップキットの新武将登録

PC版 三国志Ⅹ with パワーアップキットで新武将を作成・登録をしたのですが、シナリオを選んだ後にプレイする武将一覧に出てきません。一覧の上にあるソートするボタンも新武将の部分は選べず、登場する新武将はいませんみたいなメッセージが出ます。

新武将の編集で確認すると確かに編集での一覧には登録されていますし、登場する年もシナリオ開始年には成人になっているように設定できています。

どうやったら自分で作った新武将をゲームに登場・操作させることができるのでしょうか。


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武将一覧の下に「登場」というボタンがあります。そこからまず登場させる武将を選択してください。

そこで武将を登場に設定すれば一覧上の「新武将」ボタンが押せるようになります。

三國志の不思議について。 私は三國志が好きです。 ですが、不思議でならないこと...

三國志の不思議について。

私は三國志が好きです。

ですが、不思議でならないことがあります。

それは、私が特定の武将に対して、おかしな覚え方をしていることです。




1 厳顔の字は明らかではありませんが、「厳顔おしょう」と言ってしまいます。

2 太史慈の字は子義ですが、「太史慈やすえい」と言ってしまいます。



自分でも何故なのか分かりませんが、どういうわけか、正しい内容よりも先に、間違っている内容を口走ってしまいます。

私がこのような間違いを覚えた理由に、心あたりのある方はいませんか? 似ている名前の人がいる等


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鑑真和上「がんじんわじょう」鑑真和尚と

薬師寺保栄でしょうか

三國志に詳しい人教えてください。 袁紹軍の武将、軍師を全て教えてください。 (出...

三國志に詳しい人教えてください。

袁紹軍の武将、軍師を全て教えてください。

(出典は演義、正史、後漢書)

ぬけもれの無いようにお願いします。


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一瞬でも幕僚になったのも含めてみて・・・

荀イク・荀シン・郭嘉・董昭・沮授・田豊・審配・逢紀・郭図・辛毘・辛評・王脩。

うーん、漏れてそうな気がするが・・・



やっぱり漏れあり。許攸。

他の回答者さまのおっしゃる通り、きりがないので。というよりは許攸を漏らす時点で私はダメ。



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全員、ですか。

史実に名が残っていない人物は確実に漏れますが、そこはどうしますか?

「戦場で個人が殺した人数」と同じく、袁紹が何人の武将や軍師を配下に置いていたのかなど記録には残っていません。名前が残っている人物だけでも恐らく数百人規模になるでしょうね。

それを全員調べて書き上げても構いませんが、恐らく7日の回答期限では時間が足りませんし、その回答に漏れや抜けがあるかどうか誰が判断するのでしょう?仮に質問者さんが判断なさるのであれば、わざわざ回答する必要がなくなってしまいますよね?



という訳で、ご自分でお調べ下さい。主だったごく一部の面々ならzigentaishiさんが挙げて下さってますね。


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「教えてください」と言いつつ「ぬけもれの無いよう」って(笑)どうやって漏れがあるかどうか判断する気?

三國志に出てくる人物で「こいつは強運の持ち主」といえる人を教えていただけませ...

三國志に出てくる人物で「こいつは強運の持ち主」といえる人を教えていただけませんでしょうか。



ただし、劉備は除くものとします。


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孫権でしょう。短命の孫家の中で長寿でしたし、家臣にも恵まれていたし、国も栄えたし。

三國志の武将の槍の重さてなんきろぐらいですかだいたいでもいいから教えてくださ...

三國志の武将の槍の重さてなんきろぐらいですかだいたいでもいいから教えてください。


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◆約5キログラムです。



槍は三国時代に開発された武器で、

重量が約5キログラム、長さが約3mです。



『周礼』「考工記」(前5世紀頃成立)には、

槍の原形となった矛と鈹が既に登場しています。

三國志の内容と主な登場人物についてかいつまんで教えてください。同僚に読者が結...

三國志の内容と主な登場人物についてかいつまんで教えてください。同僚に読者が結構いて話についていけません。よろしくお願いいたします。


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赤壁の戦いの後、劉備は荊州という地の領主(言い換えれば大名)になる。そして、孔明が発案した中国大陸を曹操の魏と孫権の呉、劉備の蜀という3の国に分ける「天下三分の計」を実現すべく益州(今の四川省)を攻めて蜀を建国し、三国時代が到来する。

荊州の統治という領土問題を巡って呉の孫権と荊州を守る関羽が争い、魏と同盟を結んだ呉の連合軍に攻められた関羽は呉軍に捕まり、首をはねられる。

もう一人の義弟張飛にも先立たれた劉備は関羽の報復を誓い軍師孔明の制止を振り切って呉に進行、しかし、夷陵の戦いで呉将陸遜に大敗し、白帝城に落ち伸びる。戦いの中で病を生じた劉備は、孔明に後事を託して、亡くなった。

劉備の子、劉禅が後を継いだが、彼は乱世を生き抜くにはボンクラであった。孔明はそんな劉禅を支え、亡き劉備の夢である「漢朝再興」を果たすために魏に侵攻するも、ライバル司馬懿仲達との死闘を繰り広げるさなか、病にて陣中で没する。

孔明死後、蜀は魏に滅ぼされ、魏は司馬懿のクーデターで政権を掌握された後、孫の司馬炎が魏を滅ぼし西晋を建国。

西晋は呉を滅ぼして、中華統一を果たした。

かくして、諸葛孔明が討ちたてた「天下三分の計」はもろくも崩れ去り、新しい王朝が成立するのであった。



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後漢末、黄巾の乱。劉備が関羽、張飛と義兄弟となり、義勇軍を作り活躍する。乱は平定されるが、国は乱れ、中央の政変を、最終的に董卓が勝ち残り、暴虐の限りを尽くす。黄巾の乱で活躍した曹操が呼びかけ、袁紹を盟主に、劉備、孫堅らが董卓討伐軍が結成。関羽が董卓の猛将・華雄を切り、最強の豪傑・呂布を劉備三兄弟が追い払う。討伐軍は解散。董卓は呂布に裏切られ、死ぬ。群雄割拠、乱世に。華北は官度の戦いで曹操が袁紹を破って、最大勢力に。劉備は各地を転々、流浪。孔明を三顧の礼で軍師に迎え、赤壁の戦いで曹操に勝つ。続く。


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ここであらすじや主要人物を書き上げても三国志ファンとは語り合えないでしょう。情報量があまりにも少なすぎます。やはり小説を買って読んでもらうほかないと思います。


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まず、三国志の登場人物はものすご~く多いので、以下にあげる人は、本当の基本中の基本です。

やはり、理解されるには一度お読みになるのがベストかと。



まず主人公級(蜀陣営)

・劉備(玄徳):小説の主人公。皇帝家の血を引き、人徳にあふれる。

・関羽(雲長):劉備の義弟。仁義に厚く、見事なひげを生やし、一人で万人と戦えるといわれる武将。

・張飛(翼徳):同じく劉備、関羽の義弟。武勇は関羽以上と呼ばれるが、酒に酔って失敗することも多い。

・諸葛量(孔明):劉備を支える天才軍師。神のごとき英知を持つ。



魏の陣営

・曹操(孟徳):劉備最大のライバルで敵役。鋭い知恵を持つ、冷酷、現実的政治家。

・司馬懿(仲達):魏最高の軍師で諸葛亮と激しい頭脳戦を繰り広げる。



呉の陣営

・孫権(仲謀):呉の君主。劉備と同盟し、魏に対抗する。

・周瑜(公瑾):呉の軍師。魏との一大決戦のとき智謀を振るう。



その他。

・董卓(仲穎):序盤の大悪役。皇帝を擁し、暴虐の限りを尽くす。

・呂布(奉先):董卓の部下。三国志中、最強の武将。正確は反復常ない。

・袁紹(本初):名門の出身で、曹操と天下の覇権を争う。

三國志の字の使い方 詰まる処どっちが正しいですか 呂奉先 呂布奉先

三國志の字の使い方



詰まる処どっちが正しいですか



呂奉先

呂布奉先


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どちらも正しいです。



文書の場合、姓+名+字で書かれていることもあります。

まさに呂布とほぼ同じ時代の曹丕が書いた『典論 論文』で建安七子という当時有名な文人を評する時「魯国孔融文挙,広陵陳琳孔璋,山陽王粲仲宣,北海徐干偉長,陳留阮瑀元瑜,汝南応場德進,東平劉禎公干」という記述をしています。

魯国の孔融文挙は姓孔、名融、字文挙ですが、姓名字が併記されています。

その他の6人も同じで、姓名字が一緒になっています。

よって、「呂布奉先」も間違いではありません。



漢より前の先秦時代(秦より前の時代)は、字と名前を並べることで尊敬を表すことがありました。

ただしこの場合、字の後に名前がきます。

例えば

孔子の先祖に姓公孫、名嘉、字孔父がいますが、普通「孔父嘉」といいます。

孔子の父「叔梁紇」も姓孔、名紇、字叔梁です。

秦の百里奚の子「孟明視」も有名な武将ですが、姓百里、名視、字孟明です。

同じく秦の「西乞術」は姓蹇、名術、字西乞、「白乙丙」は姓蹇、名丙、字白乙です。



時代によって字の表記方法は異なるので、三国時代の口語で姓名と字の並列は無かったはず、という理由から「呂布奉先」は間違い、とする考えには問題があります。

現代の我々が呂布の話をする時に「呂布奉先」と言っても問題ありません。



但し、当時の実際の呼び方では名を呼ぶのは失礼とされていたので、「呂奉先」または「奉先」と呼ぶのが普通です。

例えば小説などで董卓が呂布に対して「呂布、お前にに5000の兵を与える」等と言っていたらおかしいです。

正しくは「奉先」と言うべきです。

アニメの三国演義では字の習慣が無い日本人に分かりやすくするため、日本語版は姓と名をつなげているようですが、中国語版は字で呼んでいたと思います。



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目上から:呂布

同格から:呂奉先

格下から:呂(官職名)



大体こんな感じ。まあ、一般的に名前で呼びつけるのは親か天子に限られます。



呂布奉先とつなげるのは、単に、姓呂名布字奉先を略しただけで、口語では使わない。



三国志演義でいえば、会話文でこの使い分けをしますが、本文はほぼ全部呂布。

字で本文が書かれているのは劉備と孔明だけと。(ただし、三国志演義の書かれた時代、関羽は既に神だったので、関公と書いている。)



どれが正しいと言うより、日本で呂布奉先とつなげて書くようになったのは吉川三国志の所為です。


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基本的には呂奉先が正しいです。



呂布は姓が「呂」、名が「布」、字が「奉先」。



このうち名は諱(いみな)ともいい、普段使うのは大変失礼な事とされており、主君や父母など目上の人と死後に主に使われる名前です。

一方、字(あざな)の「奉先」諱は通称で普段使う名前です。

中国では名と字は同時に使う事はありませんので、「呂布奉先」というのはありえません。

現代日本では並べて書いてしまう事もおおいですが、正式には「姓・名」もしくは「姓・字」が正しいです。


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まあ両方です。状況で使い分けられます。



他者が呼ぶ場合、目上の者とか親しい者、あるいは敵が呼ぶのでなければ「呂奉先」ですね。諱で呼ぶのは無礼にあたるので代わりに使用されるのが字ですから。

全部をつなげて使うのは自ら名乗る場合、あるいは文書の中においてなどです。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%97

<三國志> 許攸vs田豊 共に袁紹に使える知力に長けているが どちらがより聡明であ...

<三國志>

許攸vs田豊

共に袁紹に使える知力に長けているが

どちらがより聡明であり、どちらがより軍師にふさわしいですか?


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田豊でしょう。

こういうのは歴史の後付で、予見した人の評価が上がりがちですが、それを除いても

袁紹伝にも公孫サン平定は彼のおかげと書いてありますし

三國志見たいに戦争で戦って勝利を目指すと言うゲームないでしょうかシヴィライゼ...

三國志見たいに戦争で戦って勝利を目指すと言うゲームないでしょうかシヴィライゼーションでは無くてPS2の奴でお願いします


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「信長の野望」なんかはそういうタイプのゲームだと思いますが・・・。

私は一時期、この「信長の野望」にハマって眠る時間を削ってました。

三國志の質問です。 董卓の武将で、胡軫(こしん)という人物がいましたが、彼は正史...

三國志の質問です。

董卓の武将で、胡軫(こしん)という人物がいましたが、彼は正史には出てくるのでしょうか。


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見つけました。



FEpedia URL

http://mwkp.fresheye.com/article/%E8%83%A1%E8%BB%AB?

三國志の登場人物で好きな人物は誰ですか?(正史も演義も含みます) できれば理由...

三國志の登場人物で好きな人物は誰ですか?(正史も演義も含みます)

できれば理由も教えて下さい。


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一番好きなのは、孔融(字文挙)です。

一言居士で、あの曹操(字孟徳)に楯突くぐらいですから。



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孫堅です!

太く短くワイルドな生き様が男らしくて素敵に思えます。

けっこう野蛮で、野心家で、君主というより猛将の性質なのかな?と思いますが、頭も良く、民から支持された有能な政治家でもあります。

孫策のカリスマ性と孫権の政治能力をバランス良く持っていたのが彼等の父・孫堅だと思っています。

孫堅があと5年でも長く生きていたら、一体どんな歴史が生まれていたのか…

孫堅の死は三国志において、大きなターニングポイントだったのでは無いでしょうか。


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呉の丞相顧雍が一番好きな人物です。

寡黙で実直且つ剛毅な人で、孫権に「ものを言わぬが、言えば必ず的を射る」と評されました。

酒を全く飲まないところが自分と同じで親近感があります。


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曹操:カリスマ性の野心家で乱世の奸雄と評された魏武帝だから。

呂布:武を奉じ、戦う為に生まれた三国最強の猛将だから。

孫権:尚武の孫呉の初代皇帝で武将としても優秀だから。


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私も 諸葛亮孔明 ですね。

出師の表 も捨てがたいエピソードです。


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やはり

諸葛孔明ですね。

「泣いて馬謖を斬る」のエピソードでは、

指揮官にとって、何が一番大切なのか教えてくれます。



これだけでも

「三國志」を読む価値があります。

三國志についてです。石兵八陣って本当にあったんですか? もし無くて、どうやって...

三國志についてです。石兵八陣って本当にあったんですか?

もし無くて、どうやって陸遜をおいかえしたんですか?


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実際には石兵八陣は存在しません。

陸遜は自分たちが蜀軍を深追いすると魏が攻め込んでくると予測していたので自発的に引き返しています。

三國志などにでてくる武将達は本当にあんくらい強かったんですか??もしあんなの...

三國志などにでてくる武将達は本当にあんくらい強かったんですか??もしあんなのが現代にいたら確実に最強ですよね?


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膨張されただけかも知れませんがでも敵陣に突撃したりしているので自分の腕前には自信があったのではないでしょうか

三國志のそうひわ何で死んだんですか。びょうじにですかそれとも戦死にしたんです...

三國志のそうひわ何で死んだんですか。びょうじにですかそれとも戦死にしたんですか教えてください。


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曹丕も父の曹操と同じく病死ですよ。

おそらく、皇帝の激務による過労による病死だと思います。



あと、前回のご質問も拝見しましたが、「病死」は「びょうじに」ではなく「びょうし」と読みます。ご注意下さい。



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曹丕の死因ですよね?



曹丕は226年に風邪をこじらせて肺炎に陥り、そのまま死亡したとのことなので病死ですね。



父、曹操も成しえなかった漢から帝位を簒奪し魏初代皇帝となった悪名高い人物です。

三國志の史記が全て架空の物語だとしても、その事実を確かめる術はありませんか?

三國志の史記が全て架空の物語だとしても、その事実を確かめる術はありませんか?


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ないでしょう

どんな記録があっても

創られた背景で事実かどうかもわかりません

真実も事実も立場で変わります



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私が発明したタイムマシンを格安でレンタルするので確かめて来てください。ただね帰ってこられるか不安なんですが....。


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他の史記(十八史略とかいろいろ)でも書いてあれば史実っぽい。

古跡の発掘で曹操の墓が見つかったとかあるので、何もかも架空と言うことはできないでしょう。

三國志大戦と戦国大戦 どちらかをはじめようとおもってるのですが、どっちがオス...

三國志大戦と戦国大戦





どちらかをはじめようとおもってるのですが、どっちがオススメですか?





理由とかも教えてください。



よろしくお願いします。


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少し遊んでつまらなかったらすぐ辞める場合戦国大戦です。ショップに売れば損害も少ないです。

三國志の典韋がスパルタのレオニダス王と殴りあい、とっくみあいのデスマッチやっ...

三國志の典韋がスパルタのレオニダス王と殴りあい、とっくみあいのデスマッチやったらどっち強い?



互いにパンツ以外裸体で素手。武器は無し。


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両方とも相当なダメージを受けるのは確実でしょうが、

勝敗はその時の運で決まるでしょう。

三國志。関羽の着ている服でよく見る色は何ですか。 私は緑色です。なぜ緑色なのか...

三國志。関羽の着ている服でよく見る色は何ですか。

私は緑色です。なぜ緑色なのか気になります。



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ボクは小学生ですが…



緑色が正解です。関羽の真っ赤な顔は、(補色効果で)緑色の服でいっそう赤く見えるからです。



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私は女子高生ですが、



緑色をよく見ます。



先の方が申される通り、

関羽様のお顔から緑が似合うかと思い、私が見立てました。

三國志11の購入を考えています。 君主プレーとはどういうことですか?自分の好き...

三國志11の購入を考えています。

君主プレーとはどういうことですか?自分の好きな武将は使用できますか?


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「自分で好きな武将を選択する」という形式ではなく、「君主を選択してプレーする」という形式です。

なので、関羽や張飛、趙雲などといった人気武将を主人公(自分でプレーする武将)とするのではなく、

劉備・曹操・孫権などといった主な君主を主人公とし、一人で自国の都市をすべて担うことになります。

ただし、君主の所属都市以外はコンピュータの武将に委任することができます。



自分は武将プレーの方が好きですが・・・。

三國志についてです! 小喬と孫尚香は どの様な関係なんでしょうか...? 教えて...

三國志についてです!



小喬と孫尚香は

どの様な関係なんでしょうか...?



教えてください!

お願いします(´;ω;`)


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真面目に答えましょう。

小喬とは孫策の部下で義兄弟の周喩の妻、孫尚香は孫策らの妹です。

だから義理の姉妹になるんじゃないですか?



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リアルに言います



何も無かったはずです。

三國志ファンの方に質問致しますが、反董卓連合十七鎮の人物、すべて言えますか。

三國志ファンの方に質問致しますが、反董卓連合十七鎮の人物、すべて言えますか。


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第一鎮 南陽太守・袁術

第二鎮 冀州刺史・韓馥

第三鎮 豫州刺史・孔伷

第四鎮 兗州刺史・劉岱

第五鎮 河内太守・王匡

第六鎮 陳留太守・張邈

第七鎮 東郡太守・喬瑁

第八鎮 山陽太守・袁遺

第九鎮 済北の相・鮑信

第十鎮 北海太守・孔融

第十一鎮 広陵太守官・張超

第十二鎮 徐州刺史・陶謙

第十三鎮 西涼太守・馬騰

第十四鎮 北平太守・公孫瓚

第十五鎮 上党太守・張楊

第十六鎮 長沙太守・孫堅

第十七鎮 渤海太守・袁紹

ですね。



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曹操(15)・袁紹(17)・公孫瓚(14)・袁術(1)・孫堅(16)・韓馥・孔伷・劉岱・張邈・喬瑁・袁遺・鮑信・孔融・張超・陶謙・馬騰・張楊かな?

三國志で有名な策士、諸葛亮の子孫は存在していましが、ライバルの司馬懿の子孫は...

三國志で有名な策士、諸葛亮の子孫は存在していましが、ライバルの司馬懿の子孫は今も存在してるのでしょうか?


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司馬懿の子孫は皇帝についたこともあって八王の乱以降東晋時代までにかなり殺されました。劉裕が宋を起こす際にほぼ根絶やしにされました。姓が特徴あるため中々生き延びるのが難しかったようです。 それで劉裕の支配下でない山西省に残った司馬一族は北宋の政治家,司馬光を輩出しましたがその後一族は政争で滅びました。 現代中国では自称司馬懿の子孫はいるかも知れませんが本物はいないはずです。

三國志。司馬孚、字は叔達は、司馬炎が魏を滅ぼした頃、何歳くらいだったのでしょ...

三國志。司馬孚、字は叔達は、司馬炎が魏を滅ぼした頃、何歳くらいだったのでしょうか。


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180年生-272年没ですから、85歳くらいでしょうか。

93歳での大往生でした。

晋建国は265年ですね。

三國志に出てくる鮑信についてですが、鮑信の武力はいかほどだったのでしょうか。 ...

三國志に出てくる鮑信についてですが、鮑信の武力はいかほどだったのでしょうか。

曹操を守って死んでいますが。


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智謀に秀でていたといわれて、代々儒学で名を成しめた家系の出身

、常に質素な生活をしていた。多くの人から慕われていた。

後漢の霊帝の時代、騎都尉となる。

、曹操が董卓討伐軍を起こしたとき、その討伐軍に参加して、

曹操と友人になるが、徐栄に大敗し、弟の鮑韜が戦死した。

その後、青州黄巾軍の残党討伐の際、奮戦し曹操は助かったが

本人は戦死したことから人格、人物は優れた人だと思います。

武力は普通より劣らないまでもそれほど高いものではなかった

のではないのでしょうか?

三國志に出てくる人物で強運の持ち主を教えていただけませんか。 ただし、劉備や...

三國志に出てくる人物で強運の持ち主を教えていただけませんか。



ただし、劉備や孫権などはのぞきます。


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曹操だと思います。

運と実力を兼ね備えている人だと思います。



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強運とは到底思えないけど



魏延。好きだから。



漢字あってる?

三國志の蜀漢の滅んだ決定的な出来事はなんでしょうか? 皆さんのご高説をお聞か...

三國志の蜀漢の滅んだ決定的な出来事はなんでしょうか?



皆さんのご高説をお聞かせください。


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そもそも大河によって食糧生産が豊富な

魏や呉と異なり山岳地帯に囲まれた蜀では

国力に差がありすぎます。



そのために呉と結んで魏に対抗したのですが

呉との同盟関係が破綻すれば対抗余地がありません。



そのことを思えばよく耐えたと言えるでしょう。

三國志には、さまざまな英傑が登場しますが 中国人から見た「姜維」の評価はどうな...

三國志には、さまざまな英傑が登場しますが

中国人から見た「姜維」の評価はどうなのでしょうか?


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彼の墓や廟がいくつか存在し姜維博物館なるものもあるそうです。彼の子孫を称する人たちもいるそうなので、結構人気がある人物ではあるんでしょう。歴史家の評価となると別ですが、一般の人の評価は高いんじゃないかな。

三國志について。 何かトリビアとかありましたら是非教えてください。 正史、演義...

三國志について。

何かトリビアとかありましたら是非教えてください。

正史、演義でもOKです。



よろしくお願いしますm(__)m


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関羽の死



関羽はハン城攻略を試みるがホウ徳の猛攻に苦戦する

それと同時に関羽は呂蒙に笑裏蔵刀の計にはめられていた呂蒙はケイ州を攻略していた糜芳と博士仁は呉に降っていた

負傷していた関羽はケイ州奪回をはかるが呂蒙に敗れ捕虜になる

孫権は関羽に助命を試みるも一喝され首を斬られた

その後関羽は宴席のときに暴れだしたため呂蒙が狂って死んだらしい

その事に恐れて孫権は劉備と関羽双方の怒りをそらすために首を箱に入れて曹操に献上する

曹操が箱を開くと関羽の首が髪と髭を逆立ててにらみつけてきたので驚いて気絶してしまう

それから曹操が寝ようとすると関羽の姿が現れるようになり衰弱してしまうそれがきっかけで天命を悟って曹ヒを跡継ぎにしそれからすぐに死去するらしい



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正史よりいくつか。トリビア(無駄知識)なので、ネタになりそうなのを挙げます





関羽は劉備より年上。



虎牢関の戦いは存在せず、連合軍は宴会ばかりしていた(洛陽に入ったのは孫堅。曹操と鮑信だけは戦った)。



合肥の戦いでの呉の敗因は、援軍が大量に来るという勘違いから。あの人が恐いからではない。





なんてどうでしょうか?話のネタになりそうなやつをチョイスしました。


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貂蝉サイボーグ説なんかどうでしょう?(爆)



貂蝉は実はひどく不美人で、とても美女連環の計に使えそうにありませんでした。王允が華佗にそのことを打ち明けたところ、華佗は首を西施のものと取替えます。

これで事が成る…と喜んだ王允ですが、貂蝉はものすごいビビりで行動に移せません。それで華佗は今度は肝を荊軻のものと取り替え、ようやく度胸満点の美女となった貂蝉は呂布と董卓を籠絡したという…。



劉備三兄弟の兄弟順を決めた話もあります。



桃園結義で義兄弟となった三人ですが、兄弟順をどう決めるかで揉めます。張飛がそばの木を示して「てっぺんまで早く登った順にしようぜ」と言うが早いか登り始めます。関羽は慌てて後を追いますが、張飛はいち早く登りきり「これで俺様が長兄だ!」と得意満面。

そこへ下から笑い声。見ると劉備は木に登らず根元に腰を下ろしています。

劉備が言うには「木は根から生えるもの」つまり一番最初にあるのは根でてっぺんの葉先は最後に生まれたものだから自分が長兄、張飛が末弟だというのです。

張飛は地団駄踏んで悔しがりましたが、もう後の祭り…。



チャンチャン♪


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三国志でトリビアというと…「孫権は短足だった」というネタがまず思い浮かびます。



他には、関羽の架空の息子関索がアーサー王伝説と同じルーツを持っているという説(古代スキタイやサルマティアの英雄伝説が起源)がありますね。

「ユリイカ」1998年9月号に載っている金文京氏の「『三国志演義』と『西遊記』」に、その説が取り上げられています。


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名医華陀インド伝来説なんてどうでしょう。

中国の有名な歴史学者陳寅恪が称えた説です。



正史『三国志』に出てくる華陀の話はほとんどがインドにも似たような話があるらしいです。

しかも、インドの薬の神様を「阿伽陀(agada)」というらしく、「阿羅漢」の「阿」がとれて「羅漢」になったように、「阿伽陀」も「阿」がとれて「伽陀」になり、「華陀」に置き換わったとしています。



もしかしたら「華陀」という医者が実際に存在したが、いつの頃からか、インドの「阿伽陀」やその他の伝説によって人物像に肉付けされたのが、『三国志』に出てくる華陀の正体ではないか、と陳寅恪は言っています。



ついでに曹操の子・曹冲が象の重さを量る話もインドから伝わったものだとしています。


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関羽は死んでからの方が大変でした

算盤の発明者にされたり

商売の神様にされたり

秘密結社の象徴で

辛亥革命も関羽が居なかったら成功したかどうか

ってとこでいかがでしょう

三國志の曹曹は何で死んだですかびょうじにですかそれとも戦死にですか。

三國志の曹曹は何で死んだですかびょうじにですかそれとも戦死にですか。


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曹操は悪性脳腫瘍だったようです。

演技では頭を切開し病巣を取り除かなけれならないと華佗に言われている場面があります。



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病死です、、、、、、

三國志での大器はやっぱり劉備と曹操ですか?

三國志での大器はやっぱり劉備と曹操ですか?

どちらが大人物とおもわれますでしょうか・・・・・


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どちらも大器だと思いますよ。

魏と蜀は規模が全然違うけど、ふたりはまずスタートから違う。

曹操→名門の息子

劉備→自称皇族(本当かどうかわからず、仮に本物でも身分も財力もゼロのほとんど平民)

これからスタートして大国魏の創始者と小さくとも一国の皇帝になっている。

多くはある程度出世すると傲慢になって「おれってすごいだろう」となるけどどちらも傲慢になることなく「求む!優秀な人材」の看板を掲げ続け、能力がある人間を優遇しているので器が大きい(項羽がこれで失敗しているね)。

どちらかが傲慢で項羽状態だったら見限った臣下が離反してもっと早く統一国家になったんじゃないですかね。

どっちも大器だったから「簒奪者」呼ばわりされながら曹操は漢の重鎮として活躍し、劉備は小さいけど独立国家を維持できたのでは?



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やっぱり曹操でしょう。

劉備は、いなかったとしても、歴史に大差がなかったと思います。

曹操がいなかったら、董卓の台頭以降、混乱が長引いて、混乱を収められるほどの大勢力が生まれるまでかなり時間を要したでしょう。

袁紹が大勢力になるにはなったでしょうけど、曹操との戦でも判るように、粘り強さがありません。


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両方、主人公ですし。

三國志。諸葛亮、北伐で長安を攻略したら。 長安を攻め落としたら、まず、涼州を攻...

三國志。諸葛亮、北伐で長安を攻略したら。

長安を攻め落としたら、まず、涼州を攻めると思いますが、いつから長安に劉禅を連れてくると思いますか。


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涼州を安定させ洛陽まで攻略してからと思います。

三国志ファンと第二次世界大戦ファンって結構似た傾向にありませんか?

三国志ファンと第二次世界大戦ファンって結構似た傾向にありませんか?

この2つの時代のファンはなんというか、「その時代しか知らない」という人が他の時代のファンより多い気がします。


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質問者さんには申し訳ないけども、間違っていると回答させて頂きます。

最も大きな違いは「史実重視」か「物語重視」かの違いです。



第二次世界大戦を物語や小説で語る人はあまりいないと思います。仮にそういう人がいても「史実も知らずに語るな!」って怒られるのが一般的だと思います。



これに対して三国志は、基本的に元末明初に成立したとされる『三国志演義』と、それをベースにした小説で得た知識を元に語る人が大多数です。

実は私も三國志(それも極めて珍しい史実専門)をやってますが、まともに史実を語れる人物を中国史カテ以外で見た事がありません(爆)。どうかすると「史実かどうかなんて聞かされても面白くない」と拒否られます(汗)。



なので、本質的に全く違います。よくいるタイプの三国志ファンは、どちらかというと日本の戦国時代ファンと共通しますね。どちらも小説やゲームで得た知識を自慢げに語りますから(爆笑)。



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「ファン」ってそういうものですよ。



あらゆるジャンルにおいて、一点集中型の人を「ファン」と呼ぶのです。





他の時代のファンも本質的にはそういうものです。

単に「三国時代→約50年」「第二次世界大戦→6年」と時代が集中しているので他の時代よりも視野が狭く見えるだけです。


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ボクは小学生でしゅが…



似てましゅ。というより歴史ファンてアタマが悪いので、狭い知識しゅか入らないのでしゅ。



数学カテのシチュモン見ると頭痛がしゅたり、歴史カテにしゅか入らなかったりしましゅ。


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そんなことはないと思います。私は歴史を幅広く浅く把握してますが、故に他の時代と比較して三国志は面白いと思います。他にもこの時代面白いなとか、ありますが、三国志は、浪漫があり、とてもはまってしまう時代の一つです。


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まさか 戦国ファンがそれを言っているのではないですよね。



ゲームで入ってきた人は皆同じ匂いがします。

三國志の質問ですが 諸葛亮は自らを楽毅、菅仲になぞらえていた自信家だったのに何...

三國志の質問ですが

諸葛亮は自らを楽毅、菅仲になぞらえていた自信家だったのに何故劉備に仕える事を選択したのでしょうか?
そんなに自信があるなら曹操に仕えても良かったのではとおもいますがやはり劉備に仕えた方が自分のやりたいようにやれるから劉備を選択したのでしょうか?曹操の部下は人材豊富で優れた人物が当時からたくさんいまし曹操自身が優れた政治家であり軍略家であったから自分に全権ゆだねてもらうのは難しいとかんがえたからでしょうか?

ある三國志の資料には諸葛亮が蜀でトップに立てたのは人材が不足していたからで魏に仕えていたら人材豊富なあまりそんなに目立たなかったとの意見ありましたがどうでしょうか?

ですが諸葛亮が蜀で手腕を発揮したのはまぎれもない事実なので三國志中ではトップクラスの人物だとおもいます。

皆さんのご意見よろしくお願いします。


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東晋の史家・裴松之(三国志を注釈した人物)は諸葛亮が魏に仕官しなかった理由について「諸葛亮がもし魏に仕えていたら、陳羣や司馬懿でも対抗できる相手ではない。ましてや他の者ならなお更だ。それでも魏に仕えなかったのは、国の衰亡にあって皇族の英傑を補佐し、漢朝の再興を目指したいと考えていたからだ」

と述べています。

諸葛亮の評価ポイントとしては、流浪の劉備軍を皇帝まで押し上げた戦略と公平な政治、簒奪も出来たのに幼帝を補佐して最期まで忠義を貫いている点でしょうね。

蜀漢後期は確かに人材不足が目立ちますが、その中にあって政治と軍事を両立させる才能というのは異常なんです。中国史で政治・軍事を両立させた人物はそうそういないと思いますよ。ライバルである司馬懿からも「天下の奇才」と評されてますから、演義での脚色を差し引いても超一流の人物であることは間違いないでしょう。



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魏の曹操の知恵袋、名うての軍師司馬忠達さえ、諸葛亮には敵わぬ相手で、後世に歌われた「死せる孔明生ける忠達を走らす」(五丈原の戦いの際に孔明の計略で、忠達は物笑いの種にされた)其の天才戦術の才覚を持ってすれば曹操の家臣でもNO1に成れたでしょう。だが、彼は「忠・義・仁」を重んじ生きる高尚な人物で、ただ単に己の出世だけを臨むただの野心家ではなかったのです。そして運命的な出会いがあり、劉備玄徳という誠実で民の平和のに為に尽くすという徳のある人物に惚れたのであった。魏の曹操みたいな梟雄(腹黒な野心家)にない赤心の玄徳に自分(諸葛亮)を高く買ってくれ理解してくれることに、「士は己を知る人のために死す」と劉備に心酔していった(劉備の孔明への誠意の証は{三顧の礼}で有名)、そして劉備玄徳・関羽・張飛の「桃園の誓い」(義兄弟の誓いあった仲)の三人に天才軍師諸葛亮が加わり固い絆で結ばれ、蜀漢建国の志で彼らの波乱万丈の人生が幕を開けるのです。その計画に際して孔明が取った大構想が現在の天下(国)を三分にする深謀遠慮だったのです。ここに三国志がスタートする次第です。以上のように、孔明自身は天下取りの野心家のような梟雄タイプでなく、劉備タイプで知恵雲が湧くが如しの天才だったが、あくまでも義の人だったのです。


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諸葛亮が管仲、楽毅になぞらえたのに劉備に仕えた理由ですよね。



それはなぞらえた管仲や楽毅がどんな人物かを考えればわかることです。





管仲は、当時「弱小国」だった斉を覇者にまで押し上げた名宰相

楽毅は、同じく「弱小国」だった燕をさらに弱小国へと押しつぶそうとした斉に対して報復をし、ほとんど斉を滅ぼすところまで追い込んだ名将。





つまり、「弱小国」の将軍や宰相になって、その国を覇者にするのが、諸葛亮の夢なわけです。



徐州の虐殺もあって曹操には元々仕える気はなかったでしょうが、それだけでなく、自身が持つ夢を叶えるのに適任だったのが劉備だったと言えるのです。


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陳舜臣の『諸葛孔明』にその答えらしき文面がありましたので、一言。

孔明は181年ロウ邪郡に生まれるが、13歳の時陶謙の部下が曹操の父親を殺める事件が起こり、激怒した曹操は徐州に軍を進めた。「数十万の住民が殺害され、犬一匹も残らず、泗水の流れは死体の山でせき止められた」といわれるほどの殺戮ぶりが伝えられている。そのなかに孔明がいたとかんがえられている。孔明は戦火を逃れ弟をひきつれ叔父の諸葛玄をたより揚州に逃れる。この体験がその後の孔明の考え方の元となったのではないか。

孔明は10代のうちから曹操に対して憎しみを抱いていたと考える。従って曹操と常に正反対の態度をとってきた劉備に仕えたのではないでしょうか。

IF、孔明が魏にいたら・・・ですが、荀彧の下で程昱の上位の位置にいたのではないかな。(個人的趣味です)


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人がゲーム理論のような最大利得だけで動いているのなら確かに曹操につくべきだったし、当時のまだ無名だったときの孔明もそれが理想だと捉えた筈です。そうならないから歴史はまた面白いんですね~(数学や結婚とは違うよな)。

劉備がとても人に好かれ頼られる人物だったからと書かれてますし、三顧の礼が決定的だったのでしょう。

コーエーの三國志シリーズはどれが一番おもしろいと思いますか? 理由もいただける...

コーエーの三國志シリーズはどれが一番おもしろいと思いますか?

理由もいただけるとありがたいです。


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私は10と11が面白いと思いますが、しいて言うなら三国志11です。三国志10の方がやれることが多いし、長く遊べますが、三国志11は何より戦闘が面白いからです。三国志11では豊富な罠や設置物、技巧などが戦闘を楽しくしてくれますし、三国志11では戦場が一つなので三つ巴の戦闘も実現します。戦闘だけでは一番面白い作品なのではないかと思います。

三国志大戦3で皆さんに質問です。私は魏4を目指しているのですが皆さんの強いと思...

三国志大戦3で皆さんに質問です。私は魏4を目指しているのですが皆さんの強いと思う魏4を教えてください。
私はSR張遼SR曹操SR司馬懿UC楽進とSR張遼SR司馬懿Rホウ徳UC曹仁を使ってます。一応一品にいるのですが壁にブチ当ってます。


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張遼と司馬懿を共存させるのは難しいと思います。雲散目的ならUCトンで十分でしょう。

なので…『張遼、曹操、UCトン、カク』なんかが安定しますよ。

もしくは『Rトン、トウ艾、ホウ徳、カク』もおもしろいと思います。

軍師は荀攸で確定でしょう。戦術的には守りに徹して、ラストに敵陣連環→求心→4カウント→神速と繋がれば最高でしょう。

最初のままでも士気12から機略→求心もできますが、司馬懿の素武力に難がありますからね。

とにかく基本的には守りでカウンター主体で戦うことですね。



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とりあえず、号令多すぎですね。

雲散はUC惇で十分だし、妨害はRカクの方が使いやすい。

味方がけは神速で十分、と言うわけで司馬トラマンは却下w

先の回答者様も言われてますが、

SR文遠・SR曹操・UC惇・Rカクが安定するのでは無いでしょうか。

ただ、もうすぐバージョンUPで離間が弱体化するみたいなので、

その辺を考慮すると微妙なのですが・・・。

かなり亜種ですが、R惇・Rホウ徳・R羊コ・R郭嘉という、

序盤から低士気で荒らしていくのも楽しいかもしれません。

後、槍入れてみるとか。

SR文遠・SR曹操・R張コウ・Rカクなど。

三國志の一騎打ちって実際は本当にあったんですかねぇ? 三國志演義の中だけでの演...

三國志の一騎打ちって実際は本当にあったんですかねぇ?

三國志演義の中だけでの演出ですよねぇ?




あったとしても実際は、なんか森の陰とか、後ろからブスっと暗殺まがいな感じでコッソリ殺っちまって、あとからみんなに聞こえる様に大声で片手に首をかかげ

『敵将っ、この関羽が討ち取ったりィ~~』

みたいな一人で叫んでたパターンだったんじゃないの~本当は…



もしくは部下が敵将を殺ったのに、それを見た黄忠あたりが部下に

『ワシの殺った事にせいっ、いいな?』とか

半分脅しで手柄を横取りしたって事も十分有り得ますよね?



と言う事は三國志だけでなく、日本の戦国武将でもあったって事ですよね?



そんで結構歴史が歪められて現在に至る偽武勇伝も否定出来ませんね。


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ゲームカテの有名人がいらっしゃいましたね(笑)

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1166459741



手抜きでスミマセンがこの手の質問は散々過去に出てますがこの既出の質問へのご回答で答えはでてます

hidaka1125様やbap960428様の答え辺りがFAだと思います



基本その人物の伝には本人にとって不名誉なことは書きませんがそれ以外の人物の伝に書かれたりするので



『あったとしても実際は、なんか森の陰とか、後ろからブスっと暗殺まがいな感じでコッソリ殺っちまって、あとからみんなに聞こえる様に大声で片手に首をかかげ

『敵将っ、この関羽が討ち取ったりィ~~』

みたいな一人で叫んでたパターンだったんじゃないの~本当は…

もしくは部下が敵将を殺ったのに、それを見た黄忠あたりが部下に

『ワシの殺った事にせいっ、いいな?』とか

半分脅しで手柄を横取りしたって事も十分有り得ますよね?』



基本その人物の伝には本人にとって不名誉なことは書きませんがそれ以外の人物の伝に書かれたりするので

無論絶対ないとは言い切れませんけど質問者様がおっしゃるような可能性は少ないですよ

個人の伝がある者特に関羽(同じ巻に記載される黄忠も同様 無論関羽ほどではないが)のような大物になればなるほどその人物に関して記録は残り性格など細かく書かれます

例えば関羽は性格が傲慢なところがあるのは伝を読めば分りますしおっしゃったような事例は可能性はかなり少ないと思って差し支えないです







frogman03544様>私の有名人という言葉で誤解されたかも知れませんがこの方は話しが分らない方ではありません

まさかfrogman03544様が来られるとは思いませんでした(汗)

ちょっと私の『有名人』という言動の意味がマズイ意味としてお取りになられたかもしれません

誤解を招く表現だったかもしれませんので質問者様とfrogman03544様に謝罪させていただきます スミマセン



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アザラシさんのご回答で全てだとは思いますが・・・。

こういったご質問を私もよく拝見しますが、

質問者さんが疑問に、疑心に思われるように、

まさに、目の前で血肉が飛ぶような状況、

を正史の陳寿が、注釈を書いた裴松之が実際に見た訳でなく、

当然、演義の羅貫中なんて聞いた話の、又聞きの又聞きです。



正史に一騎打ちがあまり見えないからという事実は別にして、

例えば、三国志でいうと、

劉備が曹操に一騎打ちを挑んだとして、

結果的にどちらかが討たれたとしたら、

歴史が違う状態になりますので大事件ですが、



「たかが」一武将の・・・。

といってしまうとファンには怒られますが、

関羽が名も知らない雑兵に、

「たまたま」

討たれたしても、

三国志にとってはそれは大事件ですが、

1国の君主クラスが歴史から消える事に較べたら、

歴史にとっては、1行描き加えるか程度の影響しか与えません。

(関羽が呉に亡命したらくらいの激震があれば・・・。)



黄忠が部下の手柄を横取りしても、しなくっても、

三国志にとっても大勢変わりしませんし、

歴史はのちろんビクッともしません。



日本史は守備範囲外なので、口は挟みませんが、

三国志から1500年も経った時代の話、

まったく無いとか、尾ヒレが付いてないとは私も思いませんが、

西暦200年の講談生まれよりは信憑はあるんじゃないでしょうか?



質問者さんが仰るように偽武勇伝に色塗れていたとしても、

歴史の流れの本筋をワザと曲げている物語

(生きている人物を殺したり・・。)を創造してるんでなければ、

歴史が歪められてるほどの影響を与えられるほど、柔なものではありません。



歴史は疑ってるのも大事だと思いますし、否定されるのは論評しませんが、

それは自分の思考で止めておいて、

同意を選ろうとするのは、失礼ですが無粋ともいいますよ。



《追記》

アザラシさん。いえいえ全然、深く考えていませんでした。

余計な言葉かもしれませんので削除します。

世間に疎いもんでスミマセン。


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あったかもよ?・・・まっ、演義の創作と考えるのが自然ですね。僕も含め著者達だって実際に見た訳じゃないだろうし・・・。


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三国志の頃の場合は一騎打ちは本当にあった可能性が高いと思われます。

人口があまり多くなく、武器の破壊力もあまり高くないために戦いで全力でぶつかり合うと消耗が大きく、生産力が下がりすぎるからこそ、ある程度のところで一騎打ちでけりをつけていたと思われます。

日本の戦国時代になると元冦の影響もあり、集団戦が主となったので一騎打ちはあまり無かったのではないかと思います。

今度 高校の授業で三國志について調べることになったんですけど、どんな本を使って...

今度 高校の授業で三國志について調べることになったんですけど、どんな本を使ってどんな事を調べたらいいですか?



ちなみにサブタイトルは真の覇者は誰か です。


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「三国志」と「三国志演義」の違いについて、調べてみてはいかがでしょう?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E6%BC%94%E...





ほか、三国志を題材としたものは、以下のとおりです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E...

2012年3月26日月曜日

三国志の登場人物を全部女の子に置き換えた漫画があると聞いたのですが、ご存知の...

三国志の登場人物を全部女の子に置き換えた漫画があると聞いたのですが、ご存知の方いらっしゃいませんか?



ちなみに一騎当千ではないです。。。


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DRAGON SISTER! 1―三國志百花繚乱 という漫画では

劉備と曹操以外の登場人物がみんな女の子になっています。



その他、一部の登場人物が女の子になっているの漫画で

「ランペイジ」(劉備が女)

「女カ JOKER」(孔明が女)

「三国志艶義」(曹操・趙雲・孔明が女。成人向け)

などがあります。

三國志に関係する質問です 三國志の英雄の一人、諸葛亮が登場するのは袁紹没後で...

三國志に関係する質問です



三國志の英雄の一人、諸葛亮が登場するのは袁紹没後ですよね



その登場前後に活躍した、郭嘉、賈ク


才能を発揮することができなかった、田豊

呂布を操れなかった、李儒、陳宮



彼らは孔明と戦っていないように思います

彼らがそれぞれ孔明と戦えばやはり孔明が勝つのでしょうか?

私は特に賈クが気になります


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正史準拠:彼らのほとんどには勝てません。孔明は軍師ではありません。



演技準拠:書かれている方もありますが、その他にも、呉の歩シツに読み込まれて関羽を失ったりしています。

最大のライバル仲達や、後継として立てる必要のあったキョウイを抜きにしても、実は無敵ではないんですよ、演技でも。



カク(漢字が出てこないのですみません。)は、演技でも正史でも知謀が高いといいますか機転が利くところがあります。

曹操を殺しかけたのに許されて参謀に加わるあたり、他の軍師とは格が違う(駄洒落ではない)と思いますよ。

軍略というより謀略ならば、質問者様の意見に賛成です。



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ちなみに「三国志演義」でも、孔明が司馬懿と姜維にそれぞれ一回策が破られて負けたことがあります。


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「三国志演義」の話であれば、誰と戦おうが諸葛亮が勝ちます。相手が郭嘉だろうが田豊だろうが陳宮だろうが関係有りません。諸葛亮は劉備亡き後は物語の主役ですから、負けてはいけないのです。それは実際に、史実では諸葛亮の北伐を散々に破って撃退した曹真が、演義では何度も諸葛亮に敗れた挙げ句に小馬鹿にされて憤死する、という書かれ方をしている事からも伺えます。

実際の史実での話であれば、ここに名前が挙がった人物はみんな優れた頭脳を持った人たちですから、緊迫したせめぎ合いとなるでしょうね。その時の兵力や兵糧がどれだけあったか、周辺勢力との関係等によって結果は変わってくるでしょうね。

三國志の質問ですが 三國志末期にも初期、中期に戦場を彩った武芸に優れた武将(例え...

三國志の質問ですが

三國志末期にも初期、中期に戦場を彩った武芸に優れた武将(例えば呂布、趙雲、関羽、大史慈)に遜色のない武将はいたのでしょうか?
蜀や呉を滅ぼしたくらいですからそういった人材もいたんですよね?

どうも末期が初期、中期に比べて過小評価されているようでなりませんがどうでしょうか?

よろしくお願いします。


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文欽と子の文鴦が有名です。

特に文鴦は司馬師の軍に十数騎で斬り込み蹴散らし帰ってきてます。

その活躍ぶりが趙雲に比較されてます。

後は姜維、トウ忠なんかも演義では猛将です



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初期や中期の武将も元々武芸に秀でた人物よりは軍を指揮できる

部分で評価されている人がほとんどなのですけどね。



演義のように一騎打ちが多数あった訳でもありません。あるのは少数

で大軍を破ったりしたエピソードなどですね。そう言う基準で考えると

まずは文稷(文鴦)でしょうか。武人としての才能がある、と言われて

実際演義でも有能な武人として描かれていますし、正史では少数で

敵と対峙し暴れまわったり、晋の時代異民族討伐で功績を挙げたり、

むしろただの武人扱いでしかなかった演義よりも将軍として評価されて

いると言えるでしょう。



それとどちらかと言えば中期の人物で、しかも政治家になるのですが

孫礼なんかも少ない兵で呉の大軍を相手に自ら立ち向かい、撃退

したりしていますね。彼は虎相手でもひるまずに剣を振るって戦おうと

していたぐらいなので、個人的武勇にかなり優れていたと見て良いで

しょう。



後は少数で呉の攻勢を防いだと言うと張穎とかでしょうか、郝昭と言い

魏にはこの手の、目立たないけどいい感じで呉や蜀の攻撃を防いでく

れる武将が多いですね。



呉の方に目を向けると丁奉、蜀では張嶷あたりが個人的武勇が結構

目立つのですが、残念ながら演義では引き立て役にしかなっていないの

が残念ですね。

三國志の名言アンケート 三國志にはさまざまな名言がありますが、皆さんは誰のどの...

三國志の名言アンケート

三國志にはさまざまな名言がありますが、皆さんは誰のどの言葉にジーンときますか?
私は趙雲が阿斗を抱えて劉備の元へ戻った時に劉備が趙雲に言ったあの言葉です。レッドクリフでは省かれてしまっていましたが…

ぜひ皆さんのお気に入りを教えて下さい!


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「呉下の阿蒙に非ず」



呉の参謀魯粛が、後任の呂蒙に対して評価

した言葉。

「阿」は“~ちゃん”のことで、

「呉にいた頃の蒙ちゃんではない」の事。

呉にいた頃に主君の孫権に勉学の大切さを

諭され、大人に成ってから勉学に励み、

魯粛の下に現れた時には立派な智将と成って

いた。その時の魯粛の評が

「呉下の阿蒙に非ず」

である。

これに対して、呂蒙は

「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」

と答えたと言う。



呂蒙は、その後荊州攻めにて関羽を討ち荊州を

手に入れる大功績を挙げている。

三国志の小説を書きたいのですが(武将伝など) 参考にする本はどんなものがいいと思...

三国志の小説を書きたいのですが(武将伝など)

参考にする本はどんなものがいいと思いますか

演義ではなくて史記 史実にのっとった本がいいです


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武将に関してはコーエーの三國志武将FILEシリーズを買うのが無難です。

ゲームの新作が出るたびに武将FILEも出ますが、武将の紹介文は基本的に同じなのでブックオフで適当に安いのを買ってください。

映画「レッドクリフ」の影響で 三国志は ブームになりますか?

映画「レッドクリフ」の影響で 三国志は ブームになりますか?


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ならないと思います。



レッドクリフ自体は、見所満載で非常に良い映画でした。

ですが、三國志としては、ごく一部分のストーリーです。

ですので、『三國志ブーム』と言える程の事にはならないと思います。



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三國無双の方がブーム起こしたでしょう。


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今まで興味のなかった女性などが映画を見て興味を持ったりしてます。



ブームまではいかんけど興味を持つ人は増えるのでは?映画も良かったし。

三国志online と真三国無双online はどう違うのですか?

三国志online と真三国無双online はどう違うのですか?


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真・三國無双Online

・ジャンルはアクション

・基本無料、アイテム課金制

・1アカウントにつき1キャラのみ(※サービス初期のアカウントのみ5キャラ枠が付与)

・サーバーは1つ(シナリオ更新毎にサーバー名が変わる)

・運営はCJインターネットという別会社、コーエーはプログラム類の開発のみ

・ロビー(街)は勢力別、敵勢力のプレイヤーとは基本的に対戦時にしか出会わない

・プレイヤーが所在する都市の名前などは明確に設定されておらず(領地のどこか)、戦闘に出る以外に

都市の外へ出る事は出来ない。

・1キャラに1つ自宅があり、課金で家具を飾ったり部屋を広くしたりすることが出来る

・俸給は戦闘に出撃することが条件。戦闘にでなければ俸給もない。

・アイテム課金という仕様もあり、ゲーム内通貨が稼ぎにくい



三國志Online

・ジャンルはMMORPG

・月額課金制(初回のみスターター料金が必要、月額は1575円)

・コーエー直営

・サーバーは3つあり、1アカウントで全サーバーにキャラクター作成が可能

(※サーバー間の移動は不可)

・一族制導入で、1キャラ目につけた姓が2・3キャラ目にも適用、所属勢力も統一。

・フィールド制でプレイヤー(課金アカウント)は何処でも自由に行き来が出来る。

同じサーバー内ではどの勢力も同じマップを共有していて自由に取引や交流が出来る

・デフォルメはされているものの、マップには実際に存在する(した)地名や都市名が使われている

・ログインの有無に関わらず、勢力所属者には身分に応じた俸禄制度がある

・武器/生産/採集の各LV制。その中で一番高いLVが総合LVとなり、Lv40迄は防具のLVは総合Lv依存。

・個人の屋敷はなく、一定条件を満たした部曲(所謂ギルドのようなものです)のみゲーム内通貨にて部曲砦というスペースを所有でき、家具類を飾ったりして遊べる。

・金稼ぎは比較的容易。



こんなところでしょうかね。

ちなみに、プレイヤー用のキャラクターは組み合わせ次第では非常に酷似したものが作れます。

さすが開発元は同じメーカーなだけあるというか・・・。



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とりあえず公式のHPを見てみたらどうですか?

三国志online

http://www.gamecity.ne.jp/sol/index.htm



真三国無双online

http://www.musou-online.jp/index.asp



PCのスペック条件を満たしているならば、



どちらも無料で(制限がある場合もあります)試せますので、



やってみるといいですよ。


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簡単に言いますと、

三国志online MMORPG

無双online MOアクション

です

三国志は月額制で、無双は基本無料です

「三国志(正史・演義を問いません)」で名言と思うセリフは何ですか?

「三国志(正史・演義を問いません)」で名言と思うセリフは何ですか?

私は曹操の「わしが人を裏切ろうとも、人にわしを裏切らせはせんぞ」です。この「何様?」なセリフに「我、我が道を行かん」という信念の強さを感じますし、演義で悪役を演ずる所以と妙に感心しました。彼こそピカレスク(悪役)・ヒーローと思うのは私だけでしょうか?


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名言と一口に言っても多数ありますが、正史『三國志』から挙げましょうか。



李典「これは国家の大事です。我々は個人的感情で公の道義を忘れはしませぬ」

李典伝。日頃から仲が悪かった張遼に、楽進と李典が作戦に従わないのでは?と懸念されての言葉。



孫権「曹操には張遼がおるが、わしにも興霸(甘寧)がおる」

甘寧伝注。濡須へ攻めてきた曹操軍に対し、百騎で夜襲をかけて多大な戦果を挙げて戻った甘寧に対しての言葉。



孫権「私が鞍を支えてあなたを馬から迎え下ろしたならば、あなたの功を充分に顕彰したことになるであろうか」

魯粛「不充分です。願わくば四海を統一されて帝王としての事業を完成なさり、その上で安車蒲輪(賢者を召し出す特別な馬車)によって私を召して下さいませ。そうして初めて充分に顕彰して下さった事になるのでございます」

魯粛伝。赤壁で曹操軍を破って戻った魯粛を、孫権が群臣とともに出迎えた際のやり取り。魯粛は周瑜とともに抗戦を主張した数少ない人物。



徐晃「関雲長の首をとった者には千斤の賞金を与える」

関羽「大兄、これは何のことだ?」

徐晃「これは、ただ国家のことなのだ」

関羽伝注。官渡の戦い当時から親交のあった関羽が樊城の曹仁を攻め、曹仁の援軍に来た徐晃と関羽とのやり取り。個人的関係よりも国家の大義を優先させると宣言した言葉。



厳顔「益州には首をはねられる将軍はいても降伏する将軍はおらぬ。斬るならさっさと斬ればよい」

張飛伝。敗れて捕虜になり、張飛から罵声を浴びせられての返事。



とりあえずこんなところで(^.^)



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孔明様、命なので 孔明さまのセリフばっかりかもしれませんが。。

孔明「悠久、あくまで悠久・・」

横山光輝孔明「だまらっしゃい!」

孔明「ああ、もし関羽が生きておれば・・」

孔明「あれよ、あの煌々と見ゆる星が私の将星よ・・見よ・・今に落ちるであろう・・・」

曹操「わしが天下に背くのはよいが天下がわしに背くのは許さん」

孔明「立派な人間の友情は、、温かいからといって花を増やすこともなければ、

寒いからといって葉を落とすこともない。どんな時でも衰えず、

順境と逆境を経験して、友情はいよいよ堅固なものになっていく。 」

孔明「天下は一人の天下にあらず、すなわち天下の人の天下である。 」

孔明「治世は大徳を以ってし、小恵を以ってせず 」

孔明「「事機」が有利に展開しているのに、それを生かせないのは、

智者とはいえない。「勢機」が有利に展開しているのに、

それに乗ずることができないのは、賢者とはいえない。

「情機」が有利に展開しているのに、ぐずぐずためらっているのは、勇者とはいえない。」

孔明「人生とは、困難との戦いの連続である 」

孔明「人の心をつかめる人は、敵を消滅できる。古来、兵は戦を好まない。 」

孔明「時の流れがわからなければ、寛大であろうと、厳しくしようと、政治はすべて失敗する。

これから蜀を治めるならば、 このことを深く考えなければいけない。 」

孔明「わたしは恩をうけたことの感激にうちかつことができません。

いままさに遠く離れるにあたり涙をながし、ことばもありません」

孔明「内部の守りを固めずに、外部を攻めるのは愚策である。」

孔明「志がなければ、学問の完成はない。」

孔明「学ぶことで、才能は開花する。」

などです・・孔明さまばっかですいません・・

しかもこれは中1の単なる記憶力の悪い頭に入っているのであっているのかはわからないです・・

(#^.^#)


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名言というか1シーンになってしまいますが、

魏延「わしを殺せるものがあるか!」

馬岱「ここにいるぞ!」

という部分が好きです。


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横山光輝三国志、曹操の死の間際のセリフ



「長い戦いの人生であったわ」



こんな潔く死ねるものなのか!!


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演義の曹操も魅力的ですが、正史の曹操の存在感は、やはり圧倒的です。



建安25年(西暦220年)正月、漢の丞相・領冀州牧・使持節鉞大将軍・魏王であった曹操が、数え66歳で没しますが、その遺令はこうです(今鷹真訳)。



「天下は依然として安定をみない以上、まだ古式に従うわけにはいかない。埋葬が終われば、皆、服喪を去れ、兵を統率して守備地に駐屯している者は、部署を離れることを許さぬ。官吏はそれぞれ自己の職につとめよ。遺体を包むのには平服を用い、金銀珍宝を(墓中に)おさめるでないぞ」



魏王朝が成立するのはこの九ヶ月後ですが、このいかにも曹操らしい質実で合理的な遺言は、「礼教国家」であった東漢(後漢)王朝に対し、「戒厳軍事政権」とも呼ぶべき魏王朝にとって、事実上の建国宣言にあたるものだと思います。


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李恢

「何がむむむだ!」





補足

徐庶「否!否!」

劉備「湯を点ぜよ」

魏の諸臣「おお、夏侯淵の子なるか」

張飛「鶏は体温が高いから寄生虫がつかない」



曹操「それ英雄とは、大志を抱き、万計の妙を蔵し、行って怯まず、時潮に遅れず、宇宙の気宇、天地の理を体得して、万民の指揮にのぞむものでなければならない」


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う~ん…

あんまり頭を使いたくないので、真っ先に思い浮かんだモノを書きます。



蒼天航路の馬玩が馬超に言った最期の言葉。

あれには…涙が止まりませんでした。



「貴様は錦だ、馬超。美しく義憤を貫けい!!!!!!!!」

単騎、曹操軍の中に突撃するその姿に…漫画とは言え、泣きました。



演義での馬玩は、疑心暗鬼に駆られた馬超が真っ先に斬っているのに…

このギャップ…………


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北方謙三氏の三国志ですが

関羽敗死のシーンから、「関羽雲長帰還できず」です。

思わず涙が出そうになりました。

三国志 董卓が支配していた頃 一時期董卓が都を支配していた頃の話しなのですが...

三国志 董卓が支配していた頃





一時期董卓が都を支配していた頃の話しなのですが、以前に知恵袋で『董卓が最近実は暴虐な人間では無かったと話しがあるけど、
彼が起こしたインフレは罪では無いのか?』と質問した所、気になった回答がありました。





簡潔に言うと『当時世の中混乱してたしインフレ起きたのは董卓だけの責任ではない。曹操だって止めるのが出来なかった』とありました。





当時曹操が世の中のインフレを止める程の実力者でしたっけ?まだ漢の一武将だったと思うのですが…詳しい回答お願いします。



あと当時政治を担当していた人物分かりますか?


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インフレが起きたのは董卓だけの責任です。



古代中国の代表的貨幣である五銖銭を廃止して円形方孔銭を鋳造したのが董卓であった。材料である銅を節約し、額面と鋳造費用との差額を得ることを主目的とした結果、銅銭というよりも銅環といったほうがよいような貧弱な形状になったこの悪貨は、当然のことながら人々の信用を得ることはできず、後漢末の経済は深刻なインフレ状態に陥ってしまいました。



のちにこのような状況のさなかに後漢の丞相に就任したのが曹操であり、曹操は逆に積極的なデフレ対策を採用し、その主要な施策として小銭を廃止して五銖銭の復活をこころみました。しかし董卓によって鋳潰されたり、民間に私蔵されたりして銅の絶対量が不足していたために、銅銭自体の流通量が激減し、今度は激しいデフレ不況が発生した。さすがの曹操をもってしても王朝末期の経済破綻を改革するという神業はついに実現できなかったのでした。



しかし、そのような状況のなか曹操が積極的に経済安定のために対策をし努力していたことは評価してあげてください。



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ええと、勘違いしていた部分がすいません。インフレに関しては曹操には

何の責任もありません。私は貨幣問題、と言う部分で話をしていました。

貨幣問題は曹操も結局根本的な解決はなされず、市場は結局物々交換とか

が主流だった、と言いたかったのです。



で、インフレの部分に関してはほぼ100%下の方が答えていますので私

からは特に言うこともありません。



ただ、董卓が何故貨幣を新しくしようとしたのか、私の場合はどちらかと

言えば、そちらをもう少し考えてやっても良いのではないかと思うのです。

例えば曹操が貨幣問題に取り組んでいました。そこは評価しましょう。で

董卓も貨幣問題に取り組んでいた。何故董卓は評価できないのですか?



例えば明らかに私腹を肥やしていた、と言う事実があれば政策を行うこと

自体に問題があることになります。しかし若い頃の気前の良いエピソード

や都を掌握した後、当初は自分の配下を高位につけず知識人達を積極的に

登用していたことから、そう言う可能性も薄いと思います。



方向性が間違っていた、そのことにおいて責は負うべきと思いますが董卓

も後漢の破綻していた経済状況をなんとかしようとしていたことに変わり

はなかったのではないでしょうか。そう考えるともう少し評価すべき所は

評価してやっても良いのではないでしょうか、と思うのです。



暴虐だったから全てを悪と考えるのは簡単ですが、そう単純な話でもない

と思うのです。そこはもう少しどこに意図があるのか、方向性など分けて

評価していくべきではないでしょうか。

三國志演義で気になった点

三國志演義で気になった点

「三國志演義」で、反董卓連合解散後に袁紹は韓馥を騙して冀州(鄴)を手に入れ、

その後公孫サンは袁紹と戦って和睦した後劉備を平原の相に任命していますが、

その時平原は袁紹の支配下ではなかったのですか?

それとも袁紹は鄴と南皮を制圧してながら平原を取らなかったのですか?


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平原は冀州ではなく青州です。演義ではどうだったか忘れましたが、後漢書によると公孫瓚が平原を手に入れたのは界橋での戦いの後です。界橋で勝利すると、袁紹は追撃をかけますが失敗、逆に公孫瓚に手酷い追撃を受け7~8千の兵を失います。公孫瓚はここぞとばかりに南進して平原まで到達、青州刺史の田揩を使って斉国も落としています。両者が和解したのはこの後ですね。



ちなみに南皮がある勃海国も公孫瓚の支配域です。公孫瓚が挙兵すると冀州で大反乱が起き、肝を潰し袁紹は公孫瓚の従弟である公孫範に勃海太守を譲って同盟を持ちかけますが失敗、公孫範は勃海国とその兵を丸ごと手に入れ公孫瓚を支援します。



つまり和解時には平原も含めた河北の東半分はほとんど公孫瓚の領土だったんで、劉備を平原に派遣することも可能だったということですね。

演義ではここの領土の推移がすっぽり抜け落ちているんではないでしょうかね。私が覚えている範囲では、公孫瓚をダシに韓馥をだまくらかして冀州を奪取、怒った公孫瓚は盤河で袁紹と激突、趙雲の活躍により優勢に進めるも董卓の仲介で和解ってだけだったはずでんで。

『三國志』に関する質問です。官渡の戦い、赤壁の戦いといった有名な合戦はもとよ...

『三國志』に関する質問です。官渡の戦い、赤壁の戦いといった有名な合戦はもとより、最強の武将と謳われた呂布に、劉備玄徳、関羽、
張飛の三人が決死の騎馬戦を挑む『三国志』。後漢末期から魏・蜀・呉の三国時代を経て晋による 中国再統一がなされる迄の約80年間を俗に言う『三国志』のダイジェストで明の時代に書かれた小説『三国志演義』を基本に、史実に基づくらしい。 映画では、ジョン・ウー監督の『レッドクリフ』二部作によって、幅広い世代にも浸透しましたよね。特に、中でも興味深いのは曹操です。彼は秀逸なキャリア+エリート志向の強いキャラクターとして描かれることが多いようです。『レッドクリフ』をはじめ悪役として描かれることが数多く、自分を正当化するのが上手く世渡り上手の処世術に長けた現実主義の印象の曹操ですが、曹操は、冷酷非情である反面、物事の本質を見抜く力と柔軟性を併せ持つ政治家だと高く評価できるのではないでしょうか。現代の政治家で彼に曹操に太刀打ちできる者はいないだろう。あの三国志の最大の魅力は、乱世にふさわしい強烈な個性を兼ね備えた群雄割拠の英雄たちに尽きるだろう。


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質問は何でしょうか。

三国志物であれば陳瞬臣さんの作品をお勧めします。

「秘本三国志」「諸葛孔明」「曹操」「曹操残夢」

いずれも傑作です。

曹操の人物像ですが、政治家、武将としての面以外にも、

あの時代でも卓越した詩人、文人で、孫子の注釈者であることも、

忘れてはなりません。

三国志が有名ですが、虐殺・略奪・強姦・奴隷化の雨あられだったというのは真実な...

三国志が有名ですが、虐殺・略奪・強姦・奴隷化の雨あられだったというのは真実なのでしょうか?

諸葛孔明や劉備玄徳、曹操などなど。魏・呉・蜀の三国が天下を争った有名な話ですが、知人から実際は、それぞれの将軍に従っているにすぎない敵国民への虐殺・略奪・強姦・焼き打ち・奴隷化の雨あられだったらしいと聞きました。



あまり、信じたくはないことですが諸葛孔明なども自らの軍勢へ、敵国民への虐殺や略奪・強姦・人攫いなどの行為を奨励して容認していたのでしょうか? ・・・あるいはそういう行為をしなければ必敗するのは目に見えていたのですかね。



それとも知人の認識が間違っているのでしょうか? 詳しい方ぜひ教えてください。


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これには異を唱えたいですね。



確かに正史『三國志』には「捕らえた敵軍の兵士を生き埋めにした」だとかの虐殺や、略奪・強姦・人攫いなどの記述が出てきます。なので行われていたのは間違いないでしょう。

しかしこれは「そういった行為がニュースになる」から特筆されたものであり、決して一般的に日常的に行われていたのではありません。



また「秋毫(しゅうごう)も犯さず」という言葉があります。秋毫とは秋に抜け変わる獣の細い夏毛のことで、転じて「ごくわずか」の意です。

ごくわずかも犯さない、つまり民衆に対してほんの少しでも危害を加えないというのが古来から君子(立派な人物)としての条件でした。これを守る者は人格者で高潔な人物だと賞賛され、破る人物は低俗で野蛮な人間だと非難されました。



つまり古代より三國時代の頃までは、それらは頻繁に見られはしても非難されるべき行為で、当然の事例では無かったのです。



しかし、すぐ後の西晋時代は残念ながらそうではありませんでした。

晋を興した武帝・司馬炎の跡を継いだ恵帝は暗愚な人物で、そのため皇族の王達が実権を握ろうと次々に兵乱を起こします。八王の乱です。

王達は自軍を増強しようと、次々に北方異民族を傭兵として国内に呼び寄せました。彼ら北方異民族は、長らく「蛮夷」として蔑まれてきた怨みをこの時とばかり発揮します。

敵兵や住民は虐殺し、強姦し、家財は略奪し、ありとあらゆる蛮行を繰り広げたのです。しかも敵陣の勢力を削ぎたい王達はそれを抑えようとしませんでした。

たちまちのうちに華北は彼ら異民族に蹂躙され、草木一本に至るまで奪い尽くされたといいます。



「五胡十六国」「南北朝」といった数百年にも及ぶ大分裂時代はそのような暗黒の時代であり、これ以降、質問者さんのおっしゃるような蛮行が当然のように行われるようになるのです。



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三国志はそれぞれが漢字で名前をふられみんな漢民族みたいに思ってる人が多いですが格州によって人種も民族も微妙に違う国同士の戦いであり漢というのはローマ帝国のようにいろんな人種を同じ価値観によって支配した物と考えてもらったほうがいいです。

なのでアニメのように地方同士の将軍や兵士が同じ言葉を話した証拠もないですし言葉自体下層に行けばいくほど通じないと考えたほうがいいです。

言葉が通じなければ虐殺行為などはエスカレートする傾向が強いですからそうした意味では負けた地域の人は人間扱いされないのがあの地域の普通の慣習です。

そもそも儒家などの考え方は中原の漢民族や殷・夏の構成民族が作ったのではなくそれ以外の地域から知識人とともに入ってきたとするのが一番整合性があると思われるのでそうした道徳的なものは馴染みの浅い人たちなので勉強しているはずの上級官僚でさえ虐殺・略奪・号館・人攫いなどをわりと平気に行う場合が多いです。


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あまり信じたくは無いですが事実と思われます。



劉備の軍勢などでは、巴蜀攻略のときなどが挙げられるでしょうか

さきごろ、テレビ東京のアニメ三国志でも蜀の攻略の件を描いておりましたが、どちらかというとアニメのように劉墇は城中に精鋭三千の兵と一年余りの兵糧があったにもかかわらず、民衆や農家の苦難を慮り割とアッサリと降伏します。



その後、劉備の軍勢は成都に入城を果たしますが、このとき成都の宝物を兵士に略奪するに任せております。



張飛の嫁も攫ってきたとかどうとか曰くもありますし

その後の孔明が北伐するに当っては、五丈原などの土着の農家などに迷惑をかけないように略奪を戒め屯田しておりますから

時と場合によっては略奪を黙認するときもあり、軍規を引き締めるのを優先するときもありうるということでしょう。


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事実というか、それが古い時代の「当然」です。

三国志に限らず、世界共通ですよ。

推奨していたというより、それを認めなければ戦争になりません。



戦争では多くの兵を集めねばなりません。兵には当然報酬の支払いが必要ですが、高額の報酬を支払っていては数が揃いません。当然のように賃金は安くなります。あるいは財政状況によっては報酬支払いが遅れたり止まったりします。

そんなありさまでは、兵が命をかけてくれるわけもない。それなりの見返りが必要です。

略奪、強姦は、それ自体が報酬の一種なのです。これを禁じたら兵はさっさと離脱してしまいます。



三国志演義で、たしか陸遜が兵に略奪を禁じるシーンがあったと思いますが、わざわざ禁じるくらい略奪は当然の行為で、それを禁じることには高いリスクがあったのです。



日本でも、大阪夏の陣の屏風に、奴隷狩りの様子が描かれています。

略奪や奴隷狩りは足軽達にとっては当然の「報酬」に過ぎず、あたりまえのことでした。こういったことが「いけない」とされるようになったのは国民軍が登場し、さらに時代がかなり後になってのことです。それでも無くなりはしませんけどね。


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>敵国民への虐殺や略奪・強姦・人攫いなどの行為を奨励して容認していたのでしょうか?



容認していました。

国土が広い中国では一度徴兵されると何カ月もも故郷を離れ、その間の実家では大事な働き手を失うことになるので、故郷には手土産を持って帰らないと錦を飾ることができませんでした。だから、兵士が略奪をするのは当然の行為とされていたのです。

さらに、兵士の士気を上げるためには強姦、戦いの中で生まれた兵士の怒りや憎しみを鎮めるには殺戮が有効な手段でした。

「孫子の兵法」も解釈によっては上述の行為を奨励していると見ることもできます。

三国志の質問 ①もし孫策が50まで生きていたら、跡継ぎは誰になりますか? ②孫策の...

三国志の質問

①もし孫策が50まで生きていたら、跡継ぎは誰になりますか?

②孫策の子が、成人を迎えていたら、孫権は孫策の跡を継げましたか?


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質問1。

孫策が50まで生きていたら、跡を継ぐのは息子の孫韶です。



質問2。

孫韶は孫策が26歳で死去した時にすでに生まれています。よって24年後には成人しており、孫権は跡を継げません。

ただし、孫権の能力が史実通りとすれば、内政に大きな力を発揮するでしょう。孫策が50まで生きると西暦224年です。その間に対黄祖戦(203~208)、赤壁(208~209)、合肥攻防戦(209)、南郡攻略(209)、濡須攻防戦(213)、関羽征討(219)、夷陵(222)と数々の戦いがあり、孫韶も歴戦の武将に成長すると思われます。

(孫韶が参戦できそうなのは濡須以降、かな)

孫韶が父に似るならば英雄君主となるでしょう。補佐に孫権を従え、陸遜を対山越専任として活用できたならば対外戦争にも史実以上に積極的に出られたかも知れません。



ただ、問題になるのが孫韶の能力と寿命です。孫韶は正史『三國志』には名前のみの登場で、事跡が全く判りません。おそらく夭折したものと考えられ、孫策の寿命を50とするならば孫韶の方が先に死去する可能性も高いと思われます。

もちろん、孫韶以外の男児が生まれる可能性も当然高くなりますが、仮にその子が孫策死去時に未成年ならば(可能性大)孫権が跡を託されるでしょう。すると史実通りという事になります。



そもそも孫家は総じて短命の家系です。長生きと言えば孫権と孫静(孫堅の弟)ぐらいです。

それを考えても結局は孫権が立つような気がします。



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私は孫権だと思います。

孫家の当主は孫策なので後継者は孫策が決めます。史実では孫策が死亡した時、息子ではなく孫権を後継に指名しています。このことから孫策は自分の血統よりも孫家の繁栄を重視する人物だったと思います。なので仮に息子が成人していても実力が劣れば、弟の孫権に後事を託すと思います。

ただし、本来は弟は単なる親戚の伯父さんのひとりに過ぎません。戦国時代が終わっていれば当然長男が継ぐでしょう。


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これはあくまでも自分の予想です。



当時の孫家一族は、後世のようなしっかりした支配体制ではなく、呉周辺国の有力豪族による集まりに過ぎず、孫一族がただそれをまとめ上げているという感じでした。孫策は強いですから自然とまとめられますが、弱い当主だと分解してしまいます。孫権は守勢派君主と一般的に呼ばれ、それは主に国の内の制度をととのえ、国家としての体制を作り、富国させた君主として知られています。もし孫策の子供が後を継いでいたら、孫権自身が孫家政権の大きな障害物になりますし、おそらくまとめ上げることが出来ず、赤壁の戦いで負けてしまうと予想ができます。

結論として、孫権が後を継いだから、三国志の呉が存在すると言えるでしょう。



質問の答えとしては、おそらく内乱が起こり孫権が政権を奪うという形になると思われます。

三国志好きに質問です 蜀のホウ統が もし落鳳坡で死ななかったら 蜀は簡単に統一...

三国志好きに質問です



蜀のホウ統が

もし落鳳坡で死ななかったら

蜀は簡単に統一を果たせたと噂ありますが

まず、歴史が変わるとすれば

荊州を守っていた関羽とホウ統か諸葛亮が加わり

呂蒙の罠を防せげた あるいは無事に逃げるかして関羽は救われ

それによって夷陵の戦いも起こらないから劉備と張飛も死ななかった



ホウ統の死で諸葛亮がホウ統の分までの仕事をこなしていて

疲労がたまっていたから 五丈原の戦いで過労死?した

ホウ統がいたらもう少し長生きできただろう?



魏の曹操は、関羽の死から病気になり 墓みたいなのを建てようとして

なかなか切れない大木を曹操が切ったらそこから血が出て? 浴びて

それが原因か?死んでしまい、後を追って夏侯惇もいっちゃった

が、この2人もこの時期に死ぬことはなかっただろう。

父の後を継いで早くも魏王になった曹丕ももう少し長く生きたかな?



呉は呂蒙が呪死することもなく、孫尚香も自殺することはなかっただろう



どっちにしてもここに挙げた人達はちょっと命が伸びただけか?

ホウ統1人で歴史なんか大きく変わらなかっただろうか?

または皆生きていても別な戦が起こって簡単に蜀は総崩れになったのだろうか?


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龐統が落鳳坡で伏していた益州軍の張任に射抜かれて戦死したのは有名なお話ですが、この地名も原因も三国志演義の著者の羅貫中の作り話で架空のお話ですね。



歴史の事実では龐統は雒城包囲戦の最中に射抜かれて戦死してしまいました。

質問者様は小説のお話を歴史の事実だと思い込んでいる節があるようですが、史実を元に描かれたので事実もありますが、大半が脚色されたり話を入れ替えられたり作られた架空の話があります。



三国志演義のお話は歴史を元に作られてた小説なので物語では作られた話が多々あり歴史の事実を書いたものではありません。古くから現在、三国志と呼ばれている本が2種類あり、ひとつは歴史の本で正史(*正史とは国家公認の正統の歴史書)、もうひとつは小説です。歴史書のほうは西暦三世紀にできたもので、小説は十六世紀ごろにできたものです。小説の物語の方は「三国志演義」と言うのが本当の題名なのですが、私たちの国ではこれも「三国志」と呼ぶので、ごっちゃになっていますね。



そして、龐統は益州軍にすらと戦って戦死して敗北しているようでは魏や呉にはとうてい勝利なんてできないでしょう。前線にいすぎです、兵法を熟知しているのか疑問に思ってしまいます。

龐統が生きていたとして諸葛亮と北伐を成しとげれるなんてとても思えませんし国力と将の人材不足で無理だと思います。

蜀の人口は約94万人に対して魏の人口は約443万人と言われています。ちなみに呉は230万人です。蜀と呉をたしても魏におよびません。兵数はそれに比例します。龐統が生きていても大きく歴史が変わる事はないと思います。



私は三国志演義はもちろんのこと三国志の史実に関する書を多々読み、さらには孫子の兵法書や北京大学考古系に留学(文部科学省交換留学)の中国考古学ならびに中国軍事歴史を専門に詳しいバトルマスターこと来村先生の書をいくつか読んでいますが、蜀にどう考えても天下統一を成すのは国力や人材不足で無理と思います。



ちなみに関羽さんはプライドが高く入ったばかりの黄忠と五虎将とゆう同じ位が納得いかいと不満に怒ったり、目上の名士層や文臣に対して横柄で驕慢であったとあり。文人官僚だけでなく他の武将達からも関羽は、同じ劉備陣営の武将たちに好意を持たれていなかったとゆうヤッカミの強い人物だったことも例が多く挙げられています。馬超が加わった時には自分とどっちが上だと問い、関羽が上だと返事したら、大いに満足してその手紙を人に見せまわったとゆう記述もあります。劉備の武将の中で自分が1位でないと承知しなかったようです(本伝)。

なので諸葛亮も関羽には手を焼いていたようですので、龐統か諸葛亮が加わりとゆうのもうまくいくような気はいたしませんです。



あと、蜀主の劉備とその側近は、もともと流浪の一行であったものが、荊州の劉表を頼りに身を寄せてきた他所者にすぎなく、蜀の土着の士人層との間に心からの君臣関係が結ばれにくい面があったようです。後に劉禅の代になって、魏の大軍が蜀に来たとき、ほとんど抵抗らしいこともできずに蜀が降伏したのは、蜀の士人間では劉家のために必死で戦おうとの気魄を欠いていたからにほかならないと解説書にあります。



おまけですが、それぞれの息子を見てもダメ息子で諸葛亮の子の諸葛瞻は高い位もらって若いとはいえなにしていたんだと言いたくなります。父の志をめざして蜀のために頑張ってほしかったですがなにしたんだと言いたくなります。すごい弱いです。

そして更にダメ息子が龐統の子の龐宏で性格に問題があって、涪陵の太守どまりで終わちゃいました。戦場には無関係のようですね。



あ、長くなってしまいましたが曹操や呂蒙のその死因も小説上のことで、実際の死因とされてるのは違いますよ。



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龐統と法正が生きていれば諸葛亮は内政に専念できたでしょう。激務もなかった思うので少し長生きしたかも知れません。あとは荊州の件で呉とうまくやっていれば....

その2件で魏の勢いが鈍ればその間に司馬氏がクーデターをおこして魏は倒せたかも、その後はどうでしょうかね?

あと龐徳が馬超と蜀に来てほしい。

三國志ファンに限って、諸葛亮孔明とか劉備玄徳と、俺は名前だけじゃ無くて字も知...

三國志ファンに限って、諸葛亮孔明とか劉備玄徳と、俺は名前だけじゃ無くて字も知っているんだぞ、みたいな感じで使いますが、字と名前を同時に使うのは間違っていますよね。


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諸葛亮孔明←間違い。

諸葛孔明or孔明←正解。

諸葛が姓、亮が名、孔明は字(あざな)で自分や親兄弟等身近な人がつける渾名(基本はね)。

名は日本でいう忌名みたいなもので他人は知らないし知らせない。身近な人しか知らないらしいよ。だから字で呼ぶか他の代名詞で呼ぶのが普通。

あ、あくまで漫画等の会話での話しよ(-_-;)

漫画や小説で曹操が「劉備玄徳」言うのは違うという話し。

別に現代人がフルで言ってもいーんじゃない?ただマイナーな人名なのにフルで言われたらイラッてくるけど。



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漢書鮑宣伝

栗融客卿 禽慶子夏 蘇章遊卿 曹竟子期



後漢書孔融伝

脂習元升



後漢書文苑列伝王隆伝

史岑子孝



後漢書文苑列伝蘇順伝

曹衆伯師



後漢書逸民列伝周党伝

譚賢伯升 殷謨君長



魏志王粛伝注引魏略

厳苞文通



魏志徐邈伝

韓観曼遊



魏志楊阜伝注引魏略

尹奉次曾 趙昂偉章



魏志鄧艾伝注引世語

郭誕元奕



蜀志諸葛亮伝

徐庶元直



蜀志楊戯伝

程祁公弘 楊太季儒 張表伯達



華陽国志巴志

呉資元約 李盛仲和



華陽国志劉先主志

関羽雲長 張飛益徳 陳登元龍



華陽国志先賢士女総讃

陳実盛先



姓+諱+字が書かれている場合もあるようです


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まあそうですね、字と名前を一緒に書くのは日本だけでしょうね。


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通常,字を併記する場合には「劉備,涿郡涿県の人,字は玄徳」のように書きます。



日本では「徳川次郎三郎家康」のように書く習慣なので,中国での習慣について理解が浅いとご質問のように「間違い」ますね。



また,歴史上の偉人には敬意を込めて「諱を呼ばないのが普通」なので,「劉備玄徳」という書き方は「二重に間違っている」ということになります。



データベース的に記録するのならば「劉玄徳(備)」や「劉備(字:玄徳)」のようにすべきです。


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中国の評書には「劉備字玄徳」 或いは 「劉備劉玄徳」といいます。

「劉備玄徳」はいいません。



実はね、「玄徳」は字ですね。20歳ごろ得た字です。「備」は両親から得た名ですね。



中国人の字は尊敬の意味があります。名を呼ぶのは失礼です。



自己紹介の時は「私は劉備」と言います。「私は劉玄徳と言います」は言いませんね。傲慢です。



目上の人は「劉備」と呼びます。同輩の人は「玄徳兄」と呼びますね。


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諸葛亮孔明、劉備玄徳という記述は間違っておりません。



この記述が使用されるのは人物像の表記等のデータベースに用いられる為、姓名字、全て記述するのが正確です。



小説内の登場人物の会話で使用されるのであれば誤りですが。


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あらためてrichoukitsuさんのご指摘が正しい、と念を推しておきます。



ついつい物の本とかでも書いてあったりして、「字と姓名は併記するなんておかしい!」と思いがちなんですが、

あくまでも呼称としてありえないのであって、記述として間違っているわけではありません。

あまり一般的でないのは確かですが。



ただ、後代の異国の人間が、まして自分らの国の言葉で呼んでいるのだから何をかいわんやですね。


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ご指摘の通りです。

中国人の字と名を併記するのは間違いです。



諸葛孔明か諸葛亮、劉玄徳か劉備になります。



中国で孫文は号の中山で呼ぶのが一般的で孫中山と呼ばれ字は逸仙ですが

孫中山逸仙とは言いませんし書きません。


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同時に呼ぶのは間違い。

同時に書くのは間違いとは言い切れませんが

(例えば当の三国志、諸葛亮伝に「徐庶元直」の表記あり)

さほど一般的ではない用法です。

特に意味がない場合はわざわざ字まで併記しなくてもいいんじゃないでしょうか。





追記

rammda64さんが多数の実例を挙げてくださいましたが

自分でも一つ見つけたので書いておきます。



北宋、王安石の「遊襃禅山記」より



廬陵蕭君圭君玉長樂王囘深父予弟安國平父安上純父



廬陵(地名。長樂も同じ)の蕭君圭君玉(蕭が姓、君圭が名、君玉が字です)

長樂の王囘深父(姓王、名囘、字深父)

予(王安石)の弟である安國平父(名安國、字平父)

おなじく安上純父(名安上、字純父)

三國志について教えて下さい。結局魏・呉・蜀は滅亡したのですが曹一族、孫一族、劉...

三國志について教えて下さい。結局魏・呉・蜀は滅亡したのですが曹一族、孫一族、劉一族はどうなったんでしょうか?


後、少しずれて申し訳ないけれど晋は何で滅亡したんですか? 司馬一族は?


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孔明の死後30年ほど蜀は持ちこたえていました。

これは魏の内部が内乱などで混乱した時期があったためです。

263年、魏の大軍が蜀を攻め、姜維らが魏の一軍と戦っている間にもう一軍が成都を突いた為、劉禅は降伏し蜀は滅亡しました。

この時、成都を突いた軍と戦い孔明の一族は壊滅しています。(全滅したわけではなく子孫は残りました)

この直後、姜維は占領軍の将軍と組んで、蜀の再独立を企みますが失敗し、このときの混乱によって姜維などの諸将や関羽の一族などが滅ぼされています。

劉禅とその一族は魏に送られ、爵位と領地を与えられて安穏に暮らしたといいます。



魏は蜀を滅ぼしたことで天下の大半を手に入れたわけですが、その頃には司馬仲達の息子たちが事実上支配していました。

264年、仲達の息子の司馬昭が晋王に登り、さらに魏の元帝曹奐を脅迫して皇帝になろうとするが、翌年実現寸前で病死。

その子(仲達の孫)司馬炎が後を継いで、その年の内に皇帝に即位しました。

元帝は陳留王に格下げされ、鄴に移り住みそこで家系をつなげたと言います。

こうして魏は滅亡し、晋が成立します。



呉では孫権が晩年になると、老いからくる妄執なのか皇太子が病死したせいなのか、徐々におかしくなり、さらに新たなる皇太子の選出を巡って呉が二つに割れる事態となっていき、陸遜を始めとする多くの功臣を失う事になりました。

孫権はこの状況を死の直前に何とか収拾して、七男に跡を譲りましたがこれは大きな禍根を残しました。

その後、諸葛謹の子の諸葛格や皇族の孫峻・孫綝が専横を行うなど、政治は乱れました。

蜀が滅んだ翌年、三代皇帝孫休が亡くなると、甥の孫皓が四代皇帝に即位します。

この人物は英邁で、皆に期待されていましたが、即位すると人が変わったように恐怖政治を行い、呉では急速に人心が離れていきます。

274年、一人で呉を支えていたような存在であった陸抗(陸遜の次男)が亡くなると、晋の大軍が呉に侵攻します。

これを向かえた呉の将兵や民衆、官僚は抵抗することなくどんどん降伏する有様だったそうです。

孫皓はなすすべなく降伏、帰命侯に封じられ、劉禅と同じく天寿を全うしたそうです。

その子孫は晋滅亡時などの混乱期に反乱を起こしたり殺されたりして行方はわからなくなったといいます。



さてこれによって天下統一を果たした司馬炎でしたが、彼は天下を統一すると急速に政治への関心を失い、贅沢三昧の乱れた生活を送るようになります。

さらに彼の跡を継いだ二代皇帝司馬衷は、史上に残るほどといわれた暗愚で司馬炎が皇太子を代えようとした際には、妻が手を回して他人に代筆させて最低限の仕事を終わらせ、なんとか踏みとどまったといいます。

彼が即位すると、妻(皇后)とその一族が専横の限りを尽くします。

300年、趙王司馬倫(仲達の九男)はこれに怒って、皇后とその一党を討ち、さらに司馬衷に迫って自身が三代皇帝に就任してしまいます。

しかし、これに我こそは皇帝を継ぐべきと考える皇族たちが反乱を起こし(八王の乱)、司馬倫は討たれ司馬衷が復位したりしましたが混乱は収まらず、懐帝(司馬炎の25男)が即位する事でようやく収まりました。

この八王の乱では、北方の騎馬民族などが傭兵として使われた為、急速に彼らは力をつけていました。

匈奴の劉淵は、自らを漢の後継者と主張し、晋からの独立を宣言。

311年、劉淵の跡をついだ劉聡が、洛陽を落として懐帝を捕らえて連行し後に処刑しました。

これを永嘉の乱といい、この時、劉備の子孫のほとんどや、漢の献帝の子孫などは巻き込まれて殺されています。

こうして、晋の天下統一は崩れ、晋の皇族は呉に逃れて「東晋」を建国、騒乱の続く「五胡十六国時代」に突入し、隋が天下統一するまで、戦乱は続くことになります。



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歴史の本でも読んで調べてください。



晋は。。

後継者争いの「八王の乱」が起き、その時に兵力として流入した異民族(鮮卑、匈奴など)が「永嘉の乱」を起こし、晋の一族は南方へ逃亡、東晋となりました。

Win版三国志の評判について

Win版三国志の評判について

動画サイトなどをきっかけにして、プレイ動画を拝見

そして、自分でもプレイしてみたい と思いました。



しかしながら、最新版の11は高く、初期パッチが酷いという噂もあり、正直心配です。

なおかつ、値段も1万くらいするので、慎重にいきたいです。



そこでですが、

1 パワーアップキットというものがありますが、実際にはどのようにはたらくのでしょうか?

顔グラ変更や能力値変更など?限界突破も可能でしょうか?



2 メモリエディターというものがありますが、これはどのようなものでしょうか?

いわゆるチートみたいなものだとは思いますが、難しいのでしょうか?



3 三国志の中では、どの作品がお薦めでしょうか?



4 メモリエディター等を前提として、自由度が高く面白いのはどの作品でしょうか?



5 11での最新のパッチでは、逆切れパッチとも呼ばれるものが改善され、バランスが取れているものになっているでしょうか?



質問としてまとまりがありませんが、よろしくお願いします。

最後になりますが、お薦めできる点が御座いましたら、教えていただけると幸いです。


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1 パワーアップキットについて



パワーアップキットで編集出来るのは、通常プレイでは基本的に編集できない武将の能力値や、自拠点の内政関係の数値、資金などがいじれます。ただ、顔グラ変更などはkoei公式ではなく有志による自作ツールです。限界突破も基本的には無理です。









2 メモリーエディター



その名の通りです。メモリー(記憶。この場合セーブデータ)をエディット(編集)するツールです。これも公式ではなく、有志によって作られております。PKでは編集できないところまで編集可能な場合もあります。操作はそれほど難しくはないです。









3 オススメ?



三国志は11まであり、各ナンバーにファンとアンチがいます。例えばこれを書いている私個人は8が好きなのですが、8は駄作と悪評高いゲームです。ですので、実際に何作品か遊んでみて、自分のフィーリングとマッチする三国志を決めるのが一番かと。



インターネット掲示板最大手「2ちゃんねる」での評価ですと一番好意的な声が多いのは「三国志9」ですね。









4について



3でお話した通りで、2,3本適当に遊んでみるといいかと。特にPC版は1980円の廉価版がソースネクストなどで発売していますので、それを試しに遊んでみるとか。

例えば三国志1~6、9、11は君主プレイ(自分の勢力を決め、その君主となって部下を使う)ですし

三国志7、8、10は個人選択プレイ(君主になるもよし、配下の一武将として働くのも可能)です。









5について



多少はマシになっています。でも、PKで編集できる所はやっぱり編集した方がいいと思います。

koeiのゲーム、特にPC版をプレイする層にとっては基本知識ですけれども「PKで編集してようやく一人前」

と言われるほどゲームバランスがメチャクチャなことが多いのです。PS2などへの移植は、こういったPC版プレイヤーの

不満の声を収集した上で再度リファインしているため、総じてまともなバランスに近づいていますね。







最後に



まずはお手ごろな価格の三国志を試しに遊んでみるのが一番です。PS2でもPC版でもかまいません。

PS2のゲームソフトの三国志Ⅷと、そのパワーアップキットにはどのような違いがあるのでしょうか?

PS2のゲームソフトの三国志Ⅷと、そのパワーアップキットにはどのような違いがあるのでしょうか?


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ケータイからのご質問ということで、Amazonに掲載されているものを引用しておきます。

家庭用はPCと違いパワーアップキットだけは販売していないのでご注意ください。



>『三國志VIII with パワーアップキット』。600人以上の武将、三国志54年分のシナリオ、豊富なイベントと重厚な内容の本編だが、パワーアップキットは「結婚」「子育て」要素を本編に追加し、孔明が没した234年以降のシナリオ3本も楽しめるようになっている。

パワーアップキット版では今までの結婚相手に加え、親しい武将からも結婚相手を紹介してもらえる。女性との間に生まれた子どもは成人するまで自由に教育できるので、ビシビシ鍛えて能力を伸ばそう。育てた二世武将でプレイできるのが、本作の楽しみのひとつだ。

また、今回搭載されている「戦術キャンペーンシナリオモード」は、特定武将を主人公としたステージクリア型モードで、戦闘結果によりシナリオが変化するマルチエンディング方式を採用している。ほかにも「武将エディタ」「都市エディタ」で自由にデータを書き換えたり、「年表機能」でプレイの足跡を記録できたりと、魅力的な要素が満載。「三國志」の世界をいちだんと深く堪能できる、お得なパッケージである。

ブラウザ三国志で 本拠地に見張台をつくってレベルをあげてくと 領地(本拠地以外...

ブラウザ三国志で



本拠地に見張台をつくってレベルをあげてくと

領地(本拠地以外)に敵が攻めてきた時でも、わかるのですか?


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見張り台はその拠点のみ有効です。つまり、砦にある場合、砦に攻めてくる敵しか見られません。

三國志の呉に甘寧(かんねい)という将がいますが、どういう方だったんでしょうか...

三國志の呉に甘寧(かんねい)という将がいますが、どういう方だったんでしょうか?

三國無双の中で浮いてる存在(私の中ではいい意味です)なので気になりました。


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私はゲームをしませんので、三國無双の描かれ方はわかりませんが、

たしかに、地方の名門豪族の集合政権である「呉」では、

有名氏族とは一線を隔した、その出自は異彩ですし、

理解者はいたものの、アウトロー路線を突っ走った感はありますね。

質問者さんが仰るように、いい意味で浮いている存在に感じられます。



【甘寧(かんねい)】生年不詳~222年。



字は興覇(こうは)。巴郡臨江県四川省忠県の人。

若いころから任侠を好み、不良少年を集めてその中心になっていたといいます。

鈴を常に携えていたので、鈴の音を聞いただけで「甘寧」だと分かったといいます。



甘寧の地元では、強盗や傷害事件があると、

甘寧一味が摘発と制裁にあたったといいます。

地方の警察権限を持っていたわけです。

このあたり、江戸時代のヤクザが十手を与えられて、

形ばかりに治安維持を担ったのと似ていますね。



甘寧は、「江賊」とか「海賊」とかいわれますが、

表向きは「官吏」で、警察権すら持つ「名刺だけは堅気」の人間だったようです。



やがて学問に感化され改心した「甘寧」は、

志を抱いて手下・食客800人を引き連れて、

荊州牧の「劉表」に仕えますが重用されず、

官渡の戦いで「劉表」が日和見を決めこんだことも失望して、

荊州を去りますが、

通過する地方を占拠していた「黄祖」に身を寄せます(草鞋を脱いだ?)が、

ここでも冷遇されます。



この時、黄祖軍として孫権軍の「凌操」を討ち取るなどの手柄を立てますが、

これが後に、「凌操」の息子「凌統」の恨みを買うことになります。



その後、情勢を判断し「孫権」に身を寄せます。

「周瑜」・「呂蒙」に推挙されると、

「孫権」に父(孫堅)の仇である「黄祖」の討伐を進言します。

「孫権」は、黄祖討伐の軍を編成し、見事これを打ち破って黄祖の首を取ります。



この件は、『正史』では、「呂蒙」、「凌統」、「董襲」が軍功をあげ、

「黄祖」を討取ったのは「馮則」ですが、

『演義』では「甘寧」のキャラクターをほって置かず、

「甘寧」が大活躍し、「黄祖」を射殺した、となっています。



赤壁の戦いでは、『正史』には活躍の記載はありませんが、

『演義』では大活躍で、前哨戦の「三江口の戦い」では、

先陣を切って敵将・「蔡勲」を射殺しています。

「黄蓋」の苦肉の計では諸将に先立って助命を嘆願し、

「カン沢」と共謀して曹操の「埋伏の毒」である「蔡中」・「蔡和」を欺いています。



赤壁後、「周瑜」は南郡に「曹仁」を攻めますが、

かえって夷陵で「曹仁」の猛攻を受けます。

夷陵を守る「甘寧」は味方の援軍が来るまで城を守り抜きました。



216年、「曹操」が濡須口に攻め寄せると、

100人余りの精兵を率いて奇襲をかけ、曹操軍を大混乱に陥れました。

「孫権」は喜こんで、

「曹操には張遼がいるが、わたしにも甘寧がいる」と溜飲を下げたといいます。



『演義』では、海賊出身の武将として「凌統」との確執が強調されます。

(後日和解しました。)



『演義』では、

夷陵の戦いにおいて病床の身を押して出陣し、

沙摩柯の矢を受けて戦死しています。

矢を頭に受けたまま馬に運ばれ、

富池口の大樹の下で事切れた、となっています。

また一説には、戦死して長江に落ちましたが、

首を取ろうとする蜀兵に数千羽のカラスが襲い掛かり、

そのため蜀では首級をあげることが出来ず、

甘寧の遺体はそのままカラスに守られながら富池口に流れ着いた、といいます。

カラスが首を守ったあたり、鶴とか、鳩でないところが、

いかにも甘寧らしいですね。



富池口は現在の富池鎮で、甘寧の聖地ともいわれます。

当地には昔から甘寧を祀る廟があったといわれています。



『正史』では、病死です。

湖北省陽新県富池鎮郊外に陽新甘寧公園があります。

重慶市万州甘寧郷に、万州甘寧故里という遺跡もあります。



http://kankouha.cool.ne.jp/yiji/huazhong1.html#25



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実は益州出身で無頼の徒を糾合してヤクザの大親分に。その後一念発起して荊州へ。しかし劉表や黄祖に冷遇され孫権に仕える。天下二分の計を進言。その後数多くの戦いで活躍。無頼肌は抜けなかったようで、呂蒙の部下を射殺したりしてます。


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若い頃は遊侠の徒というか、ひらったく言えばちんぴらたちの親分。役人たちにも情け容赦なく襲撃をかけることもあり。



しかし孫権に仕えてからはその度胸と勇猛さで魏に張遼あれば呉に甘寧ありと言われるような活躍をします。

500枚です。三國志の勉強が出来るようなゲームを教えて下さい

500枚です。三國志の勉強が出来るようなゲームを教えて下さい
今、三國志のゲームは沢山出てますよね?

今度学校で三國志の勉強をするので、三國志をゲームで学んで予習出来れば良いななんて思います

そこで、三國志の勉強が出来るようなゲームを教えて下さい

機種はPS2とPSPとDSを持ってます

この三つの機種で出てるソフト、なるべくどこでも出来るPSPのソフトが良いです

史実には無いような戦いが出るようなゲームは、勉強にはならないので、史実に沿ったゲームでお願いします

三國志は本読めって意見は最もですが、本読むのは苦手なので、どうか協力よろしくお願いします


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三国無双シリーズなら真・三國無双5 SpecialがPS2版で出ているのでそれがいいですかね?無双5は前作までと違い主要キャラクター一人ひとりのシナリオがしっかりしています。しかし主要キャラに力を注いだ反面、無双モード(シナリオモード)で扱えるキャラクター数が減っており、無双ファンからは少し不評だったりします。それでも有名な人物のシナリオがしっかりしているのとアクションの難易度が前作より下がったことから三国志を知らない人や無双初心者の人にはオススメかもしれません。あと一月待てば真・三國無双5 SpecialがPSPでもリメイクされます。



余談ですが歴史の授業の三国志なんて内容がすごく薄いですし、覚えることもほんの少しです。おそらくですが授業も一日で終わってしまうのではないでしょうか?三国志に興味がありゲームをするならいいかもしれませんが、勉強のためになら三国無双をする価値はほとんどないように思えます。具体的に言えば十数時間プレイしてテストで役に立つワードが良くて10個身につくってところではないでしょうか。



また三国無双にとわずやはりゲームの三国志は必ずしも歴史に忠実かというとそうではない場合が多く学校の勉強に適しているかといえば否です。ただ歴史の流れをゲームで掴んでおくと中学高校レベルの三国志の授業が分からなくなることはまずないですし、授業をきちんと聞いていれば間違った知識も簡単に修正することができます。



【追記】

もう一つ余談ですが初心者の方には三国志より三国無双をオススメします。三国志は戦略ゲームが初めての人や歴史物の知識が全くない人には難しすぎるように思います。何をしたらいいのか分からなくなり、恐らく積みゲーになるか即売ることになると思います。



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コーエーの三國志シリーズがいいと思います



最初慣れるまで意味不明ですが、慣れたらやりやすいと思います



PS2で売られている、三國志10、11なんかはイベントが増えて、ストーリーが進みやすくなりました



三國無双では、人物の設定が違う場合が多いですが、アクションが好きなら進めやすいと思います





設定は、その人物の地位や物語での役割、死亡の時期のことです

三國無双では味方の武将は確か死ななかったです







余談ですが、漫画でよければ横山光輝の三國志が最も読みやすく、流れもつかみやすいと思います


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無難に、真・三国無双はいかがでしょうか。

ただいかんせんゲームなので、結末が変わることもありますが(たとえば赤壁の戦いで曹操軍が勝ってしまうとか)。

でも歴史のある程度の流れや、武将がどの国に属していたかなど、大まかな部分をつかむのにはもってこいだと思います。

ゲームから入り、その後本などで本当の歴史を勉強したらいいんじゃないですかね。

三国志で赤兎馬という馬が出てきますが。 あれは伝説上の生き物なのでしょうか? ...

三国志で赤兎馬という馬が出てきますが。

あれは伝説上の生き物なのでしょうか?

もしくは赤兎馬に近い毛並みを持つ馬がいたら教えてください


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違います。名馬の慣用句的な表現です。一見すると特定の馬をさす固有名詞のように感じますが、実際には、固有名詞ではありません。三國志演義だけでなく、さまざまな中国の書物に赤兎といわれる名馬は登場します。単に赤みを帯びた毛の名馬のことです。

だから逆に言うと、赤兎馬は、馬個体の名前ではないです。



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いないと思いますが、もしかしたら、毛を染める染料でもあって染めたのでは!?wwwwww

三國志の質問です 魏の、三國志終わりごろの武将の、 徐質 秦朗 秦明 鄭文 成済 ...

三國志の質問です



魏の、三國志終わりごろの武将の、



徐質

秦朗

秦明

鄭文

成済

ドヨ

秦良

朱サン



彼らの存否と、活躍について教えてください




よろしくお願いします


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存否という事は正史でどうなのか?という事だと解釈します

以下正史より



徐質 主に陳泰の元で働いた武将。姜維らと戦いよく防いだ

秦朗 母の杜氏が曹操の側室となった。曹叡と仲がよく相談を受けたりした。おかげで無能な人物だが勢威があった

あまり軍を率いて戦ってはいないが異民族討伐に一応は功績をあげた

秦明 架空の人物(水滸伝の同名人物とはえらい違いだ)

鄭文 架空の人物

成済 演義とほぼ同じ。賈充の指示で皇帝曹髦を殺したが、罪を一身に着せられて一族もろとも処刑

ドヨ 杜預。字は元凱。挙げられた人物の中では抜群に有能かつ重要かつ有名な人物

呉を滅ぼした晋の名将。今でも破竹の勢いという言葉があるがこれは

「今呉を攻めれば竹を割るように簡単に呉を滅ぼせる」という発言が元

孔子の「春秋」を愛し。「春秋経伝集解」を記しました

秦良 架空の人物

朱サン 曹真と共に曹操に仕えていたが若死に。曹真がその子に領地を与えたという記載があるのみ





以上簡単ですが

杜預に関してはエピソードのたくさんある人なのでwikiを貼っておきます。正しくは「トヨ」だったりします

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E9%A0%90



徐質と朱サンに関してはほとんど名前だけの登場なので活躍というほどのものはないです

三國志に詳しい方に質問です。諸葛亮と司馬懿どっちが優れていますか。あと関羽と...

三國志に詳しい方に質問です。諸葛亮と司馬懿どっちが優れていますか。あと関羽と夏候惇どっちが戦上手ですか。それぞれ教えてください。


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政治的な手腕では諸葛亮、戦略、戦術的な面を考えると司馬懿ではないでしょうか。

最終的な実績を加味すると司馬懿に軍配が上がるかと。



関羽と夏候惇では断然関羽の方が戦上手です。

夏候惇は負け戦が目立ちますから。

ただ統治者や軍司令官としての手腕は非常に優れており、こちらは夏候惇の方が優れていると思います。



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諸葛亮は政治家として三国一で軍師としては2流と言われていますが劉備の死後意志を継いで5度に及ぶ北伐を最前線で敢行しており、北伐は街亭の戦い以外は負け戦はほとんどありません。兵糧補給難や天候による進軍不可などで撤退しただけです。そんな諸葛亮を持久戦に持ち込んで粘ったりした司馬懿も子孫に国を乗っとらせるまで魏を追い込むことができたので司馬懿も抜群の軍師兼政治家なので甲乙付けれません。

関羽と夏候惇は関羽の方が圧倒的です。夏候惇はかなりおっちょこちょいだったみたいです。関羽は曹操が1番欲しがった武将です。


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能力的には甲乙つけがたいかんじですが、あえて優越を付ければ孔明(個人的な好みですが)です。

官僚的な孔明に対し政治家的な仲達といった所でしょうか。

日本の武将でいうなら孔明は最近流行の直江兼続、仲達は徳川家康かなイメージとしては。

新たに国を興した孔明と、国を奪った仲達を比べるとやはり孔明に一票。



関羽と夏候惇ですか、どちらも名将であり蜀、魏建国の最大級の功労者ですよね。

武人の関羽、指揮官の夏候惇。

こちらも甲乙つけ難しですが、今、神様として祭られているので関羽に一票。


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諸葛亮は政治と補給が得意。司馬懿は戦争と謀略が得意。

司馬懿が優れていると思います。

関羽は個人の武勇が夏侯惇より優れている。夏侯惇は司令官としての力が関羽より優れている。

どっちが戦上手かと言われると夏侯惇だと思います。


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まず司馬いでしょう。内政面は孔明には劣りますが、孔明の北伐失敗は、嫌と言う程

目立ちます。その点司馬いは、負けない戦の達人でしょう。全体的に見て司馬いが断然優れています。

戦上手は夏候惇でしょう。関羽の顔良切りは、正史には記載されてないですし、関羽の人生の後半は、とてつもなく

ショボイです。その点夏候惇は、長坂の戦いがタブーになっていますが、民に紛れて逃げる劉備を倒せますか?

それに魏の主要の戦に大半に出て、戦功も大きいから大将軍まで上ったのだと思います。断然夏候惇です。


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諸葛亮と司馬懿では諸葛亮です。

劉備に後を託されたほどの逸材です。



関羽と夏侯惇では関羽でしょう。

夏侯惇も魏屈指の猛将ですが関羽相手では話になりません。


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諸葛亮でしょう司馬いはあそこまでの国力の差を持ちながら諸葛亮在命中は蜀を攻めっていませんでしたそれに対し諸葛亮は公平な政治をして堂々と戦っています


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内政官としてなら、諸葛亮

軍師、参謀としてなら司馬懿ですかね。

やっても無駄な戦はやろうとせず、相手の疲弊を待つのも

立派な戦術です。

そして、あの熾烈な権力闘争を掻い潜り、司馬家の天下の元を作りだした事も

司馬懿の人間としての凄みを感じますね。



関羽と夏侯惇ならば、関羽の方が戦上手でしょうね。

白馬での顔良斬り、曹操に遷都を考えさせるような戦略の練り方など

己の武に頼る攻め方、知略を持っての攻め方など様々な攻め方をしています。

夏侯惇は主に正史で高く評価されていますが将としての才は

守勢一辺倒という気がするので攻めには不向きな将だったと思いますよ。


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内政、外交などの分野なら諸葛亮(内政75軍事25くらい)。

純粋に軍事だけなら司馬懿(内政45軍事55くらい)。



戦上手は断然、関羽だな。

三国志全体で賢明だった人ベスト5を選んでください 理由をしっかり付けて答えて...

三国志全体で賢明だった人ベスト5を選んでください



理由をしっかり付けて答えてください



最近三国志に興味があるためそちらのことを聞いてみたいです。

ちなみに僕の意見だと、 1位孔明 2位司馬懿 3位荀イク 4位程イク 5位郭嘉

ぐらいではないでしょうか?


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おそらく質問者さんは「賢明な人」=「知力の高い人」という意味合いで質問なさっているような気がしますが…(^_^;

賢明な人という場合、私は「ものの道理に通じて善悪の判断がきっちりできる人」というふうにとらえます。「賢明」という言葉がそういう意味だからです。

ですのでそれに順位などはつけられません。優劣を競うたぐいのものではありませんから。



私が三國志上で賢明だと思うのは

諸葛亮

曹操

魯粛

諸葛瑾

荀イク

数が多いので到底絞りきれませんが、とりあえず5人挙げてみました。もちろん順不同です。



一応、「知力の高い人」という意味合いでも5人挙げましょう。こちらも統一した知能テストなどを実施した訳でもないので順位はつけません。そもそも5人に絞れるものでもないので(^_^;

諸葛亮

司馬懿

曹操

荀イク

賈ク[言羽]



三国志シミュレーションなどでよく見る「知力」の数値の高い人々なら、おおむね以下の通りです。

諸葛亮

司馬懿

ホウ統

賈ク

郭嘉

作品によって少しずつ違いはあるし、これも5人に絞りきれませんが、基本的に毎回上位に顔をだすのはこういった面々です。



「賢明」というのが「知恵」ではなく「知識」という意味合いで考えておられるのであれば、やはり学者が上位を占めるでしょう。

蔡ヨウ

王粲

宋忠

司馬徽

管寧



いずれも単純に5人挙げただけであり、私の人選が絶対的なものではなく人によっては異論があるであろう事をお断りしておきますね。



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1、諸葛亮(しょかつりょう)

理由は言わずともわかるでしょう。

2、龐統(ほうとう)

鳳雛(鳳凰の雛)と謳われ、諸葛亮と並び称された。

3、郭嘉(かくか)

曹操に古くから仕えていて、自分が死ぬ際に曹操に「司馬懿」という人物

を紹介」した。

4、司馬懿(しばい)

時代の後半に諸葛亮と数々の激戦を繰り広げた。

5、李儒(りじゅ)

董卓軍の元官房。知名度は低いが、なかなかの切れ者。


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生き方や物事の考え方、さらに乱世の人間らしく軍事的な部分も合わせてみます。もちろん独断と偏見です。



1.賈詡。理由?Wikipediaでも覗いてください。鳥肌が立つほど頭が良い。



2.諸葛亮。出世できそうな君主を選び、その人を大成させ、しかも裏切ることも無く、それどころか保身すらも感じさせることないほどの忠誠心。軍事も賈詡には及ばずとも一流。



3.郭嘉・荀彧。この2人は曹操の知恵袋ですからね。ただ郭嘉は素行と短命なのが、荀彧は晩節がちょっと残念なのが頂けない。荀彧は己が悪いわけじゃないんでしょうけど…



4.司馬懿。賈詡にも負けないぐらい頭は良いんでしょうが、何か嫌い。



5.魯粛。己の財産の半分を孫呉に与える先見の明、さらに時代を見通す目が凄い。ただ一度孫呉を見放そうとしてるのがね…孫策が死んだ呉に期待が出来なかったのは分かるけど。


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どうしても軍師を選びたくなりますね。

ただ、三国志演技や漫画の三国志は物語なので、美化されている部分も多いですから、冷静な視点で選んでみますね。

もちろん、僕も質問者さんのベスト5にはわくわくしますが。



1位 しょうえん

孔明存命中は、蜀の内政をつかさどって孔明の留守中をしっかり守った。呉との連携などの外交政策と、度重なる出兵にも関わらず、兵糧なども蓄えた功績は大きいと思います。

また、孔明亡き後は丞相として、蜀を守り抜いた。彼がもう少し長生きしていれば。。。



2位 周喩

赤壁の戦いで、数倍もの魏を退けた軍略は、実際はほぼ周喩の策だと言われています。孫堅が亡くなり、領土なしの孫策を支えて、呉を建国できたのも周喩がいてこそでしょう。また、赤壁後はすかさず遼東半島の制圧にまで行っています。魏に対して北からも船で攻める拠点をとりに行った判断は、すごいと思います。



3位 司馬仲達

低い身分だったのを曹操に見出され、懐刀となる。2代目曹否、3代曹叡にも仕え、まさに魏を支えた。

蜀の北伐に対しても、全て防ぎきり、同時に呉の連携をも抑える。また、遼東の公孫氏の燕も滅ぼすなど、戦略家として素晴らしい。

彼の孫が魏を滅ぼして晋をつくるわけですが、おそらく卑弥呼の使者とも会っていたでしょう。



4位 かく

董卓の元で智謀を働かせ、曹操を苦しめた。謀略のすごさでは一番では?その後も魏においても諜報や情報戦を重視。近代的な戦略眼を持った人だったのだと思います。



5位 諸葛亮

やっぱ入れたいですよね。最近の研究では、諸葛亮の采配にはおかしいところもあったという風にも言われています。

例えば、魏に対する北伐で常にキ山を選び、結果的に常に敗退したという事実があげられています。

孔明がいつも同じ戦場を選んだのは、地理や情報に疎かったからだとも言われます。それでも、劉備亡き後、弱小国家である蜀を統合したのはやはりすごいことです。

イメージしてみると、魏の人口が100ならば、蜀の人口は10くらいなものです。そして、魏が支配する中原は豊かな土地ですが、蜀は荒れ果てた山奥です。

日本で言えば、島根県が関東地方を相手に戦い続けたようなものです。これはやっぱすごいですよね。

コーエーの三國志シリーズのおすすめ。

コーエーの三國志シリーズのおすすめ。

昔、三國志シリーズⅠ~Ⅲまでやってました。

その後、Ⅶをやったんですけど、内容ががらりと変わっていていまいちでした。



最近三國志シリーズがやりたくなったのですが、Ⅱ・Ⅲが個人的に好きです。

以後の作品で、これに近い感じの作品はありますでしょうか?


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個人的には9がオススメです。このシリーズは、シリーズを重ねるごとにいろんなことができるよ

うになった反面、あまりにもいろんなことをやらないといけなくなってしまい、テンポが悪くなってい

きました。特に戦闘部分が顕著で、1つの城を攻め落とすのに4~5時間かかる、なんてことも

ありました。それが9では、戦略性などシミュレーションゲームとしての根幹部分の質は落とさず

にシステムを簡略化することに成功しました。これにより、驚くほどテンポが良くなり、快適にプ

レイできるようになりました。非常にとっつきやすく、そういう点では2や3に近いと思います。シリ

ーズ最高傑作だと思うので、是非プレイしてみてください。

韓信と三国志

韓信と三国志

韓信は三国志の全登場人物中でも国士無双ですか?

比肩できる人物は見当たりますか?


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諸葛亮と司馬懿は比肩どころか凌駕していると思いますが。

諸葛亮は病没しなければ、三国を統一できたようにも思います。

司馬懿も負けなければ自分が安泰ということがわかっていたんだと思います。

諸葛亮の死後、蜀呉を滅ぼすことは可能だったでしょうが、

もし統一したとしても、韓信のように自分が害されてしまうことを理解していた人物だったと思います。



諸葛亮も自分の死後、自分が生きていることを宣伝することで、

司馬懿に撤兵の口実を与えて蜀軍を安全に撤兵させたのはさすがだと思います。



司馬懿は勝ってはいけないことを知っていた。

諸葛亮もそれを利用して侵攻した。

どっちが上手だかわかりません。



韓信は狩する獲物がいなくなったときに自分がどうなるかが洞察できませんでした。



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どうでしょうね。

戦争のうまさなら曹操のほうが上じゃないですか。

政治力がないので、君主にかわいがられて保護してもらえば最後まで活躍できそうです。

あとは孫策、周ユ、陸遜、シバイくらいじゃないでしょうか。



蜀にいたら諸葛亮よりは勝てたんじゃないでしょうか。


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戦に出れば負けないが、人身掌握ができなくて身を滅ぼしたというあたりは呂布に近いものがありますね。

三国志X PKをプレイしていると度々[Person Buffer Set Error r]Message ID[(6ケタの...

三国志X PKをプレイしていると度々[Person Buffer Set Error r]Message ID[(6ケタの番号)]なるものが台詞欄に出てくるのですが…!!

アンインストールいてインストールしなおしても直らないのですが、どなたか直し方の分かる方いらっしゃいますでしょうか…!


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なんでしょうね?

検索してみてもネット上では2件しか前例が出てません。

自分も三國志10はかなりプレイしたのですが、一度も見たことがないです。

恐らく一般的なバグとは違うものだと思います。



エラー内容を要約するとおおよそ「人物データの読み込みに失敗」という感じです。

状況から考えると、ファイルの破損、メモリ不足や

ページファイルの破損、常駐ソフトの影響あたりが原因でしょうか?

ディスクに傷が付いたりして一部のファイルの

インストールに失敗している可能性もあります。



前例がほとんどなく、解決例も無いので原因の特定はかなり困難だと思います。

とりあえず自分に思いつく方法を…

①互換性をいじくってみる。

①最新パッチをあてる。

②仮想メモリを無効にする。

③常駐ソフトを全て終了させてみる。

④可能なら他のPCで試してみる。

無理ならOSの再インストールをしてみる(…そこまでしてやりたければ)。



PC環境を変えても改善しない場合、ディスク自体に問題があるのだと思います。

三國志が知りたいんですが何から読めばいいのかわかりません。おすすめの書物教えて...

三國志が知りたいんですが何から読めばいいのかわかりません。おすすめの書物教えてください。


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私は、取っ掛かりが「NHK人形劇三国志」で、次いで故・横山光輝先生の「三国志」(漫画)です。

横山三国志を2~3回読めば、人物の見分けが付くと思います(当初は許チョと趙雲の区別がつかなかったw^_^;)



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お薦めは「吉川英治三国志」です。「三国志演義」にかなり近い内容です。

「宮城谷昌光三国志」は一般的に言われている三国時代が始まるまでが長いので、初めての方には厳しいかもしれません。

劉備や曹操が出てくるまでに息切れしてしまう可能性があります。

(宮城谷昌光のほとんどの長編小説が主人公が活躍するまでの前置きがとても長いです)

「北方三国志」は「演義」とだいぶ違うので、知っていて読むのならいいのでしょうが、これから入って「三国志を読んだ」というのはちょっと・・・。

マンガ「横山光輝三国志」も面白いのですが、大人には向かないかもしれません。

マンガを描き始めたころの日中関係の影響もあり、資料が少なかったためおかしいところもたくさんあります。

董卓がスマートだったり、張飛の髭が関羽並みだったり、辮髪の人がいたり、宦官に髭があったり・・・。

マンガの内容は「吉川三国志」とほぼ同じです。

そのほか、柴田錬三郎の「英雄ここにあり」と「英雄生きるべきか死すべきか」も面白いです。

前者は赤壁まで、後者は劉備死後の蜀が中心内容です。

「張遼」とか「曹操残夢」とか、ある人、ある時代にスポットを置いている小説もありますが、やっぱりまずは日本の三国志小説の先駆的存在である「吉川三国志」をお薦めします。


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正史でなく、三国志演義で良いですよね。



簡単なのは横山光輝のマンガ60巻かな?



後は、吉川栄治、陳舜臣、宮城谷昌光の三国志小説でしょか?

年代は左が古く、右が新しいです。

特に宮城谷昌光は中国歴史小説の大家ですね。

お勧めです。



後は、まったく新解釈の北方謙三 三国志も面白いです。



楽に見たいのなら中国国営放送の三国志ドラマ版、もしくはNHK人形劇三国志もお勧めです。

特に人形劇三国志の出来は素晴らしいです。

中国はやや、チープ。


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私は吉川英治さんの「新装版 三国志」を読みました!

http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E8%A3%85%E7%89%88-%E4%B8%89%E5%9B...

他の本よりデフォルメされていないと聞いてこの本を読みました。

残念ながら他の本を読んでいませんので個人的に比べた感想は言えませんが、私は面白いとおもいましたよ。サクサクと読めました。

ちょっと分厚くて持ち運びが重いですが(笑)


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横山光輝の”マンガ三国志”がお勧めです。



入門書にはピッタリですよ。



登場人物が、皆同じ顔に見えるので、ややこしいと言えばややこしいですけど。

パソコンでできる無料の三国志のゲームってありませんか?三国志がすごく好きなんで...

パソコンでできる無料の三国志のゲームってありませんか?三国志がすごく好きなんです。


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三國志 Online

http://www.gamecity.ne.jp/sol/

真・三國無双 Online

http://www.musou-online.jp/

三国志(正史・演義可)に登場する人物の中であなたが一番嫌いな人は誰ですか。 理由...



三国志(正史・演義可)に登場する人物の中であなたが一番嫌いな人は誰ですか。

理由と共にお教え下さい(^^)





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董卓嫌いです。

三國志演義を読んだとき、董卓に対して『うえっ』て思いました。

夜這いもしたし、敵兵の死肉を勝利の杯として喰らったとか……悪です。悪。



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自分が生まれ変わって登場する場合なら淳ウケイです。

死に方が嫌です。あと無能な所です。


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魏延です。

たしかに武力は高かったのでしょうが、自己評価が高すぎて

周囲の正しい評価が許せなかったのでしょう。



本当にキライです。


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ちょっと違うかもしれないですが・・。

三国志を終わらせた司馬炎ですね・・・。



祖父、親、伯父が敷いたレールの上に乗っただけの男ってイメージがぬぐえないんだよなあ・・。

統一後の堕落ぶりもマイナスポイント・・・。


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劉備の息子(阿斗)です。

あんなに蜀の人達が築きあげた国を1代で滅ぼしてしまうのは

情けない男です。

『あほ』と言われても仕方がないでしょう。

三国志ⅨWin版で、スペックがわかりません。 わかる人教えてください。 また、使え...

三国志ⅨWin版で、スペックがわかりません。

わかる人教えてください。

また、使えるかどうか見てください。

CPU Intel(R) Core(TM)2 Duo CPU T8100 @ 2.10GHz

メモリ 2032MB

グラフィックカード Mobile Intel(R) 965 Express Chipset Family

HDDの空き容量 6.464GB

OS Windows Vista

DirectX DirectX®10.0



性能は低いかもしれませんが・・・。

お願いします。


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動作環境

http://www.koei.co.jp/html/support/rqwin/require/winsan09sp.html



三國志IX 動作環境

対象OS Windows2000/XP 日本語版

※上記以外のOSはこちらをご覧ください

本体CPU PentiumII 333MHz以上

推奨:PentiumIII 1GHz以上

メモリ 128MB以上(推奨:256MB以上)の実装メモリ

ハードディスク 約600MB以上の空き容量

CD-ROMドライブ 4倍速以上のCD-ROMドライブ

ディスプレイ 1024×768ピクセル以上 、High Color表示可能なディスプレイ

サウンドカード 16ビット ステレオ 44KHz のWAVE形式が再生可能なサウンドカード

※ 本製品はDirectX8.1bを使用しています。そのため、ビデオカード、サウンドカードがDirectX8.1bをサポートしている必要があります

※ 上記の周辺機器はご使用のWindowsがサポートしているものに限ります

※ エミュレーションソフト・仮想ドライブでは正常に動作しません



Vistaでの動作確認の結果

http://www.gamecity.ne.jp/vista/



このゲームの必要スペックはかなり低いので、動くと思いますが

三國志 諸葛亮 三国時代は諸葛一族が繁栄してましたが漢の時代の諸葛一族はどのよ...

三國志 諸葛亮

三国時代は諸葛一族が繁栄してましたが漢の時代の諸葛一族はどのようだったんですか?

また晋の時代になってからは諸葛一族はどうなったんですか?


晋時代でも活躍した人はいるんですか?

よろしくお願いします。


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『漢書』の列伝七十七に、諸葛豊という人がいますけど、彼以降あんまり見かけないような・・・。



葛氏から諸葛氏と名乗りを改めたのが本当ならば、諸葛豊を含めて、共通の先祖は一家のみ、ということになり、三国時代の諸葛氏はこの諸葛豊(やその親戚)の一族の末裔のみということになります。



で、晋でももちろん諸葛氏はいます。諸葛誕の孫の諸葛恢が、東晋の時代に尚書令にまで登っています。また、血縁はわかりませんが、諸葛長民という人が東晋末期にいました。劉裕の与党の一人ですが、いろいろあって誅殺されます。宋書ではなく晋書に立伝されて、宋の功臣としてではなく、東晋の臣として記録されました。



その後も、だれの子孫かはわからない諸葛氏が時々正史に記録されています。ですが、もともと一家から始まったのが本当で、その後に別の人が諸葛に改名とかしていなければ、みんな諸葛豊の親戚一同の子孫ということになります。



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2文字苗字なので由来については諸説あります.

葛一族が引っ越したときに他の葛一族と区別するために諸の葛として諸葛となった話

葛嬰という人が諸県侯に封じられたことを機に,諸葛と名乗った話



などがあります.しかし,諸葛一族は諸葛孔明の父親までは歴史の表舞台には登場していません.ご存知,孔明が登場した後は,その孫の諸葛京が晋に仕えています.また,孔明の兄の諸葛瑾は呉にていろいろな血筋を残しています.



諸葛一族については諸葛孔明の父親からの家計図が現存しているので,興味がおありでしたら調べてみると面白いですよ

国史『三国志』諸葛亮の所の書き下し文を教えてください

国史『三国志』諸葛亮の所の書き下し文を教えてください

諸葛亮傅第五 蜀書 国志三十五の



因屏人曰、漢室傾頽、姦臣窃命、主上蒙塵、

孤不度徳量力、欲信大義於天下、而智術短淺、

遂用猖獗、至于今日、然志猶未已、君謂計将安出、



のところです。お願いします!!


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確か以前ブログでも訳したものがあるので丸写しですが



読み下し



因屏人曰。

因って人を屏(しりぞけて)曰く。



漢室傾頹。姦臣竊命。主上蒙塵。

漢室傾頹し、姦臣命を竊(ぬす)み。主上蒙塵す。



孤不度德量力。欲信大義於天下而智術淺短。遂用猖獗至于今日。

孤(われ)徳を度り力を量らず、大義を天下に信(の)べんと欲するも、智術淺短にして、遂に用(も)って猖獗(しょうけつ)し、今日に至る。



然志猶未已君謂計將安出。

しかも志なおいまだ已(や)まず。君謂(おも)うに計將(まさ)に安(いず)くに出でんとするか。





意訳

人払いをしてから劉備は。

『漢の王室の権威は揺らぎ倒れる寸前です。大臣が国の権利を貪り天子は王宮を追われ戻ることすら叶いません。

(ときの後漢の天子・獻帝は、董卓により首都の洛陽を去って長安に留まり6年、建安元年に曹操により許(河南省)に迎えられて12年。建安12年の当時は姦臣とは曹操の事を指す。)



私は徳と力が不足しているのもわきまえずに、漢王室の復権と泰平を天下に行おうと奔走しましたが、知識も策術も浅はかにして猖獗(逆賊の勢いが盛ん)のまま今日に至っております。

しかし、私の漢王室の復興の思いは今だ消えておりません。あなたが思うところ何から始めたらいいかお聞かせください。」

三国志で一番愚かだった人物はだれですか? 回答待ってます!

三国志で一番愚かだった人物はだれですか?

回答待ってます!


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なんか見当違いの回答が多いですね。基本的に歴史に名が残り、誰でも知っているような有名人物が「愚か」だとは言えないと思いますがね。



袁術、劉禅、孫晧、諸葛亮。彼らはみな賛否両論こそあれど、愚かとまでは言えないでしょう。

劉禅が国を滅ぼした暗君?とんでもない。圧倒的劣勢の小国を39年も存続・維持させたのにそんな事を言われる筋合いはないでしょう。孫晧にしても同様です。些細で過酷な刑罰が目立ち正史でも酷評されていますが、彼にしても在位は16年を数えます。帝位に登る前の彼は聡明で優秀な人物であり、その豹変は三國志中最大の謎のひとつです。

袁術は董卓後の一時期、袁紹と国家を二分する最大勢力の領袖だった人物です。真に愚かなら孫堅・孫策親子をはじめ彼に従った人物が多い理由が説明できません。

諸葛亮を挙げられたご回答に至っては完全に誤解でしょう。諸葛亮が巴蜀遠征軍に参加したのは劉備の命であり、それに対してホウ統が激怒したなどとは聞いた事がありません。



私が「愚か」と言われて思い浮かべるのは、嘉平年間(250~256)に弘農の太守であった劉類でしょうか。人を信頼せず下役人を酷使し、酷刑を課し、官吏・人民を苦しめました。

尹昌という百歳近い老人が、劉類が巡行する際の道筋に住んでおり、息子に「府君(とのさま)をお迎えして感謝を述べたい」と頼んで道に出て待っていたところ、これを見た劉類は喜ぶどころか「こんな死人をわしに会わせるのか」と激怒した、と言います。

ただしそんな劉類も人間関係を上手く処理する能力があり、刺史・郡守を歴任したとあり、住民に告発されて弘農太守を免官されても、処刑されるでもなく中央に戻って官職に任命されています。

劉類の人間性は確かに最低ですが、愚かとまでは言えないかも知れません。



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中国でも日本でも愚か者の代名詞になってる劉禅ですかね、やっぱ。



別に劉禅の善政で蜀の国がしばらくもった訳でなく、孔明ら優秀な政治家がいたのと、蜀は交通が悪いど田舎にあるので攻めにくく自然の要塞があったからで、記録にも劉禅は酒と女の日々であり国を守る意志もなく、英雄たちを祀る武侯祀にも皇帝なのにその名はありませんからね。


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姜維は評価が分かれるところではないかと…。

諸葛亮の後を継いで北伐を実現…

という志は立派ですが、戦局は魏を脅かすまでに至らず、

それどころか度重なる遠征により兵力と費用が嵩む一方になり、

かえって国力が弱くなっていったらしいです。

また劉備の代から成都を守備している

防衛軍にまで北伐の為に手を出し、

結果としてトウ艾に成都へ付け入る隙を

与えるハメになってしまったとのこと。

蜀の滅亡は劉禅の暗愚さ・黄晧の専横・姜維の無謀が

原因であるという見方もある様です。


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馬謖では?



諸葛亮の弟子で優秀でしたが、石亭の戦いで指揮を任された際に、自分の才に溺れ諸葛亮が指示した布陣を無視し、自分の考えで布陣を敷いた事により、この布陣を司馬懿に攻略され蜀は北伐における大事な戦を落としてしまいました。



これによって馬謖は死罪になりました。





他の部下からは、死罪を撤回するよう諸葛亮に進言しましたが、諸葛亮は規律を重視し、馬謖を死罪にしました。



これが有名な、

「泣いて馬謖を斬る」の元となります。


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曹豹をおいて他になし!



無謀にも夏侯惇と一騎打ちをしたり

酒を飲んでいる張飛をわざわざ諌めたり

調子に乗って張飛を追撃して討ち取られたりと

お墨付きに(?)「三国志Ⅱ」がそれを証明。


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愚かというか「愚直」だったのは楊奉だと思います。



白波賊の頭領だった彼は、董卓亡き後混乱の極みにあった長安から逃れる献帝と、ひょんなことから共に行動することになり、洛陽への逃避行全般で帝を御守りした中心人物です。そんな功績があり、しかるべき立場にいたにも関わらず政権のイニシアチブを握れず(握らず?)、曹操の天子奉戴の際には子供だましのような策に乗ってしまい許への遷都を許し、やむなく身を寄せた袁術に勤皇の志がないと見るや呂布に寝返るもその後は呂布とうまくいかず、最後は劉備を頼ろうとして面会するもその席で殺される…



言ったら悪いがあまりにも馬鹿正直(泣)。でも彼ほど純粋に献帝に尽くそうとしていた人物はそういないのでは?こういう愚直さは嫌いじゃないです。


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黄皓じゃないですかね。劉禅挙げてる方が居たので。宦官で蜀の政治の腐敗を招いた人物です。劉禅に気に入られ賄賂などやりたい放題。

諸葛亮や姜維の北伐失敗の散財は外的要因だと思います。ですが政治腐敗は国の根幹を支える問題が一番だと思いますけどね。

後に蜀が降伏した際に劉禅は存命しますが、黄皓は処断されます。

歴史に残る失敗してるからこそ愚かというんじゃないんですかね。他に正しい選択肢が有ったと思われるのに、何故か間違った選択した事を愚かだと思いますけど。


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むずかしいですけど諸葛亮ですかね

鳳統を信用せず刑州を留守したことが最大の過ち

孔明は言われているほど戦略家ではなく鳳統は刑州を留守にしたことで孔明に激怒してます


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孫皓



三国志に出てくる登場人物の中でも一番残虐な性格と言われ、人の顔の皮を剥ぐなど、ありとあらゆる拷問を行った暴君であったとされる。その上猜疑心の強い性格で、濮陽興・張布ら多くの部下を処刑している。そのためか陳寿の『三国志』上での評価も否定的な記述が目立ち、晋は孫晧の降伏を許さず腰と首と断ち(腰斬刑、通常の死罪よりさらに重罪人に適用された)、万民に謝罪すべきであったと酷評している。



国を滅ぼした暗君という意味では劉禅もいっしょだが、自国民に対して悪逆非道な分だけこいつの方が愚か。


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中国では、無能な人間を「阿斗」というそうですので、幼名がかわいそうな使われ方をしている劉禅でしょうか。


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実力不相応に帝位を僭称した袁術でしょうか。皇帝を名乗っても、ただ私腹を肥やすために民からあれこれ搾取した挙げ句、敵に負けて野垂れ死に。君主の器ではありません。



kanshinshunjyu様のご意見を拝見して自分のものの見方の浅さを反省しつつ、ふと疑問に思ったのですが、今時「お馬鹿キャラ」を売り物にしている芸能人の方々も実際は結構したたかな人たちなのでしょうね(カテ違いのネタを引っ張り出して申し訳ございませんm(_ _)m)。



ひょっとして孫皓は古代ローマのカリギュラみたいに、病気がきっかけで人格が一変してしまったのでしょうか? あるいは薬物中毒(五石散でしたっけ)か…(そもそも五石散が呉の国にもあったかどうか)?

三國志にてっぽおたいはいますかいませんか。

三國志にてっぽおたいはいますかいませんか。


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いません。

銃や火縄銃というようなものが発明されたのは三國志の時代から1000年ほど後の事です。

三國志の質問ですが 漢末から三国時代は北方民族の侵略されたりまたは討伐したりし...

三國志の質問ですが

漢末から三国時代は北方民族の侵略されたりまたは討伐したりしていたのでしょうか?

具体的にどのような対応をしてたのでしょうか?


友好関係はあったのでしょうか?


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三国志と言えば群雄割拠した華々しい印象がありますが

実はそうではないようです。



漢末期の黄巾の乱から三国時代までは

戦争ばかりしていたために農業をする人手がいなくなり

食料不足に陥り、その結果極端に人口が減少しました。

ナント、約6000万から600万ぐらいまで人口が減ったそうです!

魏呉蜀はそれぞれ人口不足を抱えており、そのために戦争では

決定的に勝利することができず、人口問題の解決が喫緊の課題でした。



そこで三国とも異民族を自国に移住させ人口不足を補ったわけです。

なかでも魏(晋)は、北方の騎馬民族を引き入れたために軍事的に

優位になり、呉と蜀に勝利し最終的に統一に成功しました。

しかし魏も晋も長くは続かず、五胡十六国時代になるわけです。

五胡十六国時代が始まったのは、もともとは三国時代に異民族を引き入れて

利用したために異民族の力が大きくなったことが原因なのです。



さらに言えば、純粋な漢民族は三国時代までであり

その後は、異民族との混血が繰り返されたために

当時の漢民族の民族性が、大きく変容したということです。

つまり中国史とは、異民族(モンゴル、女真、チベット、ウイグルなど)史

でもあるわけです。



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まず、侵略されたり討伐したりということですが

後漢の学者サイヨウの娘蔡文姫が異民族に連れ去られて曹操が帰還させたということ、諸葛亮の南蛮討伐から侵略や討伐があったのは間違いないでしょう。



対応は国、政治目的などにより様々です。



友好関係はありました。たとえば董卓は羌族の有力者が尋ねたとき家畜を殺してもてなしたというエピソードがありますし馬超は異民族との混血だといわれています。姜維は北伐の時に羌族の力を借りようとしています


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もちろんです。三国時代はその後の五胡十六国時代の幕開けですから、頻繁に北方の異民族に関する記述が出てきます。主なとこは烏丸、鮮卑、匈奴、羌などでしょうか。匈奴などは異民族とは言っても洛陽のすぐ近く(河東)に居住してたりと、遥か僻地に住んでる遠い人達というだけではなさそうです。



対応は武力による討伐に官爵や恩賞などを与える懐柔、さらに中原への移住奨励や兵力として雇ったりなど、まぁ色々やってます。異民族対策のスペシャリストもおり、後漢末期だと有名どころで劉虞や公孫サン、魏では閻柔、田豫、徐バク、郭淮などなど。彼らは異民族統治で大きな功績を挙げています。



また、北方の魏だけでなく、呉蜀も異民族に悩まされています。呉は山越・武陵蛮、蜀は南蛮夷。これらも太守が変わるたびに反乱を起こすなどかなり厄介な存在だったようです。


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三国時代の異民族としては南蛮の孟獲が有名ですが、その他の異民族もけっこう出てきます。

例えば孟獲が蜀を攻める際には、西方の異民族である鮮卑が五路の征蜀軍の一つとして派遣され馬超に撃退されています。



北方の異民族としては匈奴族ですね。

後漢の書家であり政治家である蔡邕の娘:蔡文姫は、故郷にいるときに匈奴族に拉致され、匈奴族の王の側室になり、曹操が大量の身代金を送ったことで国に変えることができました。

(蔡文姫の子供は匈奴に残ります。)



匈奴からの侵略や中国側からの侵攻、交易などは、いろいろあったようですね。