三國志の質問ですが
漢末から三国時代は北方民族の侵略されたりまたは討伐したりしていたのでしょうか?
具体的にどのような対応をしてたのでしょうか?
友好関係はあったのでしょうか?
|||
三国志と言えば群雄割拠した華々しい印象がありますが
実はそうではないようです。
漢末期の黄巾の乱から三国時代までは
戦争ばかりしていたために農業をする人手がいなくなり
食料不足に陥り、その結果極端に人口が減少しました。
ナント、約6000万から600万ぐらいまで人口が減ったそうです!
魏呉蜀はそれぞれ人口不足を抱えており、そのために戦争では
決定的に勝利することができず、人口問題の解決が喫緊の課題でした。
そこで三国とも異民族を自国に移住させ人口不足を補ったわけです。
なかでも魏(晋)は、北方の騎馬民族を引き入れたために軍事的に
優位になり、呉と蜀に勝利し最終的に統一に成功しました。
しかし魏も晋も長くは続かず、五胡十六国時代になるわけです。
五胡十六国時代が始まったのは、もともとは三国時代に異民族を引き入れて
利用したために異民族の力が大きくなったことが原因なのです。
さらに言えば、純粋な漢民族は三国時代までであり
その後は、異民族との混血が繰り返されたために
当時の漢民族の民族性が、大きく変容したということです。
つまり中国史とは、異民族(モンゴル、女真、チベット、ウイグルなど)史
でもあるわけです。
|||
まず、侵略されたり討伐したりということですが
後漢の学者サイヨウの娘蔡文姫が異民族に連れ去られて曹操が帰還させたということ、諸葛亮の南蛮討伐から侵略や討伐があったのは間違いないでしょう。
対応は国、政治目的などにより様々です。
友好関係はありました。たとえば董卓は羌族の有力者が尋ねたとき家畜を殺してもてなしたというエピソードがありますし馬超は異民族との混血だといわれています。姜維は北伐の時に羌族の力を借りようとしています
|||
もちろんです。三国時代はその後の五胡十六国時代の幕開けですから、頻繁に北方の異民族に関する記述が出てきます。主なとこは烏丸、鮮卑、匈奴、羌などでしょうか。匈奴などは異民族とは言っても洛陽のすぐ近く(河東)に居住してたりと、遥か僻地に住んでる遠い人達というだけではなさそうです。
対応は武力による討伐に官爵や恩賞などを与える懐柔、さらに中原への移住奨励や兵力として雇ったりなど、まぁ色々やってます。異民族対策のスペシャリストもおり、後漢末期だと有名どころで劉虞や公孫サン、魏では閻柔、田豫、徐バク、郭淮などなど。彼らは異民族統治で大きな功績を挙げています。
また、北方の魏だけでなく、呉蜀も異民族に悩まされています。呉は山越・武陵蛮、蜀は南蛮夷。これらも太守が変わるたびに反乱を起こすなどかなり厄介な存在だったようです。
|||
三国時代の異民族としては南蛮の孟獲が有名ですが、その他の異民族もけっこう出てきます。
例えば孟獲が蜀を攻める際には、西方の異民族である鮮卑が五路の征蜀軍の一つとして派遣され馬超に撃退されています。
北方の異民族としては匈奴族ですね。
後漢の書家であり政治家である蔡邕の娘:蔡文姫は、故郷にいるときに匈奴族に拉致され、匈奴族の王の側室になり、曹操が大量の身代金を送ったことで国に変えることができました。
(蔡文姫の子供は匈奴に残ります。)
匈奴からの侵略や中国側からの侵攻、交易などは、いろいろあったようですね。
0 件のコメント:
コメントを投稿