三國志の質問ですが
三國志演義では武将の一騎打ちの場面が異様に多い気がしますが実際はどうだったんでしょう?
また大将が先頭切って敵に突撃してますが本当に大将がそんな危険な事してたんでしょうか?
またこの時代は兵士の武装や兵器の変革期ときいた事ありますが本当ですか?
横山光輝のマンガみてるかぎり史記、項羽と劉邦、三國志とどれもさほどかわらないようにかんじますがどうだったんでしょう?
三國志後期に連弩なる兵器がでてきたくらいでさほど戦の仕方はかわらないようにおもえます。
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質問者様の考える通り、一軍の指揮官が前線に立って一騎打ちをするなど、基本的にはあり得ないことです。
大将は、数千から数万の兵士を率いる管理者なのですから、一騎打ちに興じるなどは責任放棄以外の何物でもありません。
そんなことは戦国春秋の時代から当然とされています。
ただし、いつの時代でも(現代でも)「指揮官先頭」という原則もありまして、後ろに引っ込んでばかりいる指揮官は(作戦面で有能でも)嫌われます。
また古代では、先史時代の風習である一騎打ちへのあこがれも残っています。
ですから、兵士の士気を鼓舞するために前線に立って戦うような武将もいましたし、そのような武将の間で一騎打ちが起こることも、珍しくはありません。
ただし、大将級の高位の指揮官がすることは珍しかったのです。
でも、それでは物語としてつまらないですし、史実の作戦がどのように推移したかを調べるのは大変なので、「総大将の一騎打ち」というイベントを創作したわけです。
また三国時代は兵器や戦術の変革期なのは間違いありません。
古代の中国では、戦国春秋(ここが最大の大変革期)の戦乱の後、漢王朝の平和なが長く続きました。
その結果、科学技術そのものは全般に進歩したのに、兵器はあまり進歩しなかったのです。
そして戦乱の時代になって、技術の進歩に合わせて、兵器などの急速な進歩が始まります。
このあたりは、日本の江戸時代を考えればわかりやすいと思います。
戦国時代には劇的に兵器や戦術が進歩したのに、江戸時代になると軍事技術の進歩がほぼ完全に止まります。
そして幕末の動乱が始まると、また技術の進歩が始まるのです。
ただし、西洋や中国からその時点の最先端の軍事技術を輸入した日本と違い、中国は国内で発明した技術分しか進歩しませんから、日本ほど劇的に兵器の性能は変わりません。
変わるのは、兵器の生産性(要するに高性能の金属兵器をより多くの兵士が装備するようになる)以外ではソフトウェア的な部分、つまり軍隊の組織管理技術や戦術です。
具体的には、戦国春秋までは革の鎧が一般的でしたが、三国期には鉄の鎧の普及が進みます。(構造はどちらも札をつづり合わせたようなものが多い)
刃の焼き入れの技術も進歩し、剣や槍はより鋭利になっています。
また築城、攻城兵器、船舶などもかなり大きく進歩していいます。
それと蛇足ですが、錬弩は戦国春秋時代からあったとされ、三国期になされたのはその小型化とされますが、詳細は不明です。
また連射式も同時多数発射式もどちらも錬弩と呼びますが、史実では同時多数発射式が主流です。
そして夢のない話ですが、攻城兵器のような大型の錬弩以外は、戦術的にほとんど価値はなかったみたいです。
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孫策や孫堅などの戦馬鹿以外はまず陣頭に立つなど有り得ません。そして孫策も孫堅もそんな不用意さが命取りになっています。
で、我々が思い浮かべるような一騎討ち(両軍から一名ずつ進み出て、みたいな)。正史三国志からは一つしか確認できません。董卓暗殺後に起こった長安の戦いでの呂布対郭汜だけです。呂布伝より抜粋。
『「英雄記」にいう。郭汜は長安城を北側から攻撃していたが、呂布が軍勢を押し出して「軍勢を下げよ。一対一で勝負しよう」と言ったので、これに応じて呂布と戦い、矛を突き立てられたが、部下に助けられた』
この他にも孫策対太史慈、馬超対閻行もありますが、馬超対閻行は経緯がよく分からずただ「馬超がボコボコにされた」としか分からない、孫策対太史慈は一騎討ちというより遭遇戦。道端でばったり出会っていきなり殴り合いを始めたとかそんなもんです。我々がイメージする一騎討ちとは大分違いますよね。
この3つ以外に正史に一騎討ちはありません。つまりそれぐらい一騎討ちをやるなんて普通じゃなかったということですね。
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陣頭指揮をとることがイコール一騎打ちではありませんから。
関羽対顔良、黄忠対夏侯淵といったあたりも、一騎打ちをねらったのではなく、混戦、乱戦の中で将対将になったのではないでしょうか。
総大将が先陣をきっての突撃は多くはないでしょうが、一介の将の先陣突撃は少なくないのではないでしょうか。将は兵卒よりも質のいい武装をしているはずで、徴兵されて、鎧もつぎはぎだらけで、たいした武器ももっていない兵士を先頭にするより、絶対に頑丈で破壊力ありますし。
例を挙げましょう。
宋の時代の楊再興という人は、もともと賊将で、岳飛の弟を戦死させるほどの強敵だったようですが、降伏後、岳飛の武将として活躍します。300騎を率いての移動中、10万を超える金の大軍に遭遇してしまい、全員戦死しますが、2000もの金兵を倒していたとか。そして、彼の体には合計して2升(今の単位ではありません)ものやじりが刺さっていたそうで、その戦いっぷりから、彼が陣頭指揮をとっていたことが想像できます。つまり、指揮官が陣頭指揮をとれば、小集団でも鬼のように強いわけです。
後漢の光武帝なんか、総大将どころか一国の主君が陣頭で突撃してます。まぁ、光武帝は初陣で馬がなくて牛で出陣したという、ものすごいエピソードの持ち主なので、ちょっと凡例にはなりませんね。。
で、話がそれましたが、相手も指揮官が陣頭指揮をとっていたとして、しかも先頭と先頭がそのままぶつかれば、将同士の一騎打ちっぽくなる、ということですね。これを一騎打ちに入れるかどうかは微妙なところではないでしょうか。
そして、一騎打ちや一騎駆けのような、個人の武勇譚が増えてくるのは十六国・南北朝以降です。あぶみが登場してからですね。
一騎打ちではありませんが、冉閔の戦いっぷりとか、鬼です。・・・いや、彼は所業も鬼でしたが。。。
そして、『三国志演義』には、後漢末三国の時代にはなかった武器・防具が登場します。これは、もともと講談や演劇から発展して読み物になった経緯のある作品だからです。読み書きのできない民衆に、時代考証もなにもありません。当時のものを取り入れるほうが講談や演劇の聴衆にはしっくりくるからです。つまり、三国志演義のもとになった講談や演劇の作られた時代では、一騎打ち的なものがけっこうあった、ということでいいのではないでしょうか。
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三国志演義の場合
もとになったのが
日本でいうお講談です
日本でも「真田幸村が指揮を執った」じゃ喜ばない
やっぱり先陣を切ってもらいたいんでしょう
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創作です。史実で行われた一騎打ちは、孫堅 VS 華雄、関羽 VS 顔良、黄忠 VS 夏侯淵 くらいです。
しかも夏侯淵の場合、生前から曹操は『指揮官は進んで前に出るだけではなく時には退くことも重要であり、戦いには知略も必要だ』と言っています。
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その頃の兵士は、まるで奴隷軍であって、やる気は全然なかったと思います。だから武将が先頭に立って闘わざるを得ず、そうすれば兵士達も残業整理の”召使”として後ろからついて行ったに過ぎないと思います。もしも、武将が後方にいたら、兵士たちは遊び出すか昼寝を始めると思います。それが古代社会でしょう。今の人の想像を絶する社会だと思いますよ。
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