2012年3月26日月曜日

三國志演義で気になった点

三國志演義で気になった点

「三國志演義」で、反董卓連合解散後に袁紹は韓馥を騙して冀州(鄴)を手に入れ、

その後公孫サンは袁紹と戦って和睦した後劉備を平原の相に任命していますが、

その時平原は袁紹の支配下ではなかったのですか?

それとも袁紹は鄴と南皮を制圧してながら平原を取らなかったのですか?


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平原は冀州ではなく青州です。演義ではどうだったか忘れましたが、後漢書によると公孫瓚が平原を手に入れたのは界橋での戦いの後です。界橋で勝利すると、袁紹は追撃をかけますが失敗、逆に公孫瓚に手酷い追撃を受け7~8千の兵を失います。公孫瓚はここぞとばかりに南進して平原まで到達、青州刺史の田揩を使って斉国も落としています。両者が和解したのはこの後ですね。



ちなみに南皮がある勃海国も公孫瓚の支配域です。公孫瓚が挙兵すると冀州で大反乱が起き、肝を潰し袁紹は公孫瓚の従弟である公孫範に勃海太守を譲って同盟を持ちかけますが失敗、公孫範は勃海国とその兵を丸ごと手に入れ公孫瓚を支援します。



つまり和解時には平原も含めた河北の東半分はほとんど公孫瓚の領土だったんで、劉備を平原に派遣することも可能だったということですね。

演義ではここの領土の推移がすっぽり抜け落ちているんではないでしょうかね。私が覚えている範囲では、公孫瓚をダシに韓馥をだまくらかして冀州を奪取、怒った公孫瓚は盤河で袁紹と激突、趙雲の活躍により優勢に進めるも董卓の仲介で和解ってだけだったはずでんで。

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