三國志について教えて下さい。結局魏・呉・蜀は滅亡したのですが曹一族、孫一族、劉一族はどうなったんでしょうか?
後、少しずれて申し訳ないけれど晋は何で滅亡したんですか? 司馬一族は?
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孔明の死後30年ほど蜀は持ちこたえていました。
これは魏の内部が内乱などで混乱した時期があったためです。
263年、魏の大軍が蜀を攻め、姜維らが魏の一軍と戦っている間にもう一軍が成都を突いた為、劉禅は降伏し蜀は滅亡しました。
この時、成都を突いた軍と戦い孔明の一族は壊滅しています。(全滅したわけではなく子孫は残りました)
この直後、姜維は占領軍の将軍と組んで、蜀の再独立を企みますが失敗し、このときの混乱によって姜維などの諸将や関羽の一族などが滅ぼされています。
劉禅とその一族は魏に送られ、爵位と領地を与えられて安穏に暮らしたといいます。
魏は蜀を滅ぼしたことで天下の大半を手に入れたわけですが、その頃には司馬仲達の息子たちが事実上支配していました。
264年、仲達の息子の司馬昭が晋王に登り、さらに魏の元帝曹奐を脅迫して皇帝になろうとするが、翌年実現寸前で病死。
その子(仲達の孫)司馬炎が後を継いで、その年の内に皇帝に即位しました。
元帝は陳留王に格下げされ、鄴に移り住みそこで家系をつなげたと言います。
こうして魏は滅亡し、晋が成立します。
呉では孫権が晩年になると、老いからくる妄執なのか皇太子が病死したせいなのか、徐々におかしくなり、さらに新たなる皇太子の選出を巡って呉が二つに割れる事態となっていき、陸遜を始めとする多くの功臣を失う事になりました。
孫権はこの状況を死の直前に何とか収拾して、七男に跡を譲りましたがこれは大きな禍根を残しました。
その後、諸葛謹の子の諸葛格や皇族の孫峻・孫綝が専横を行うなど、政治は乱れました。
蜀が滅んだ翌年、三代皇帝孫休が亡くなると、甥の孫皓が四代皇帝に即位します。
この人物は英邁で、皆に期待されていましたが、即位すると人が変わったように恐怖政治を行い、呉では急速に人心が離れていきます。
274年、一人で呉を支えていたような存在であった陸抗(陸遜の次男)が亡くなると、晋の大軍が呉に侵攻します。
これを向かえた呉の将兵や民衆、官僚は抵抗することなくどんどん降伏する有様だったそうです。
孫皓はなすすべなく降伏、帰命侯に封じられ、劉禅と同じく天寿を全うしたそうです。
その子孫は晋滅亡時などの混乱期に反乱を起こしたり殺されたりして行方はわからなくなったといいます。
さてこれによって天下統一を果たした司馬炎でしたが、彼は天下を統一すると急速に政治への関心を失い、贅沢三昧の乱れた生活を送るようになります。
さらに彼の跡を継いだ二代皇帝司馬衷は、史上に残るほどといわれた暗愚で司馬炎が皇太子を代えようとした際には、妻が手を回して他人に代筆させて最低限の仕事を終わらせ、なんとか踏みとどまったといいます。
彼が即位すると、妻(皇后)とその一族が専横の限りを尽くします。
300年、趙王司馬倫(仲達の九男)はこれに怒って、皇后とその一党を討ち、さらに司馬衷に迫って自身が三代皇帝に就任してしまいます。
しかし、これに我こそは皇帝を継ぐべきと考える皇族たちが反乱を起こし(八王の乱)、司馬倫は討たれ司馬衷が復位したりしましたが混乱は収まらず、懐帝(司馬炎の25男)が即位する事でようやく収まりました。
この八王の乱では、北方の騎馬民族などが傭兵として使われた為、急速に彼らは力をつけていました。
匈奴の劉淵は、自らを漢の後継者と主張し、晋からの独立を宣言。
311年、劉淵の跡をついだ劉聡が、洛陽を落として懐帝を捕らえて連行し後に処刑しました。
これを永嘉の乱といい、この時、劉備の子孫のほとんどや、漢の献帝の子孫などは巻き込まれて殺されています。
こうして、晋の天下統一は崩れ、晋の皇族は呉に逃れて「東晋」を建国、騒乱の続く「五胡十六国時代」に突入し、隋が天下統一するまで、戦乱は続くことになります。
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歴史の本でも読んで調べてください。
晋は。。
後継者争いの「八王の乱」が起き、その時に兵力として流入した異民族(鮮卑、匈奴など)が「永嘉の乱」を起こし、晋の一族は南方へ逃亡、東晋となりました。
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