2012年3月28日水曜日

三國志の張角について詳しく知りたいのですが…。 彼を教祖とする太平道の教義等に...

三國志の張角について詳しく知りたいのですが…。



彼を教祖とする太平道の教義等について詳しく載っている書籍をご存知でしたらお教え願えないでしょうか?




また、張角自身に纏わる伝説などがございましたら、そちらもお教え頂けますと幸いです。


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太平道と五斗米道はかなり似た教義とされています。

太平道の教義である太平清領書は現在に残っていないようですが、五斗米道は次代を経て正一教という道教の一派として現在に残っています。

ということで道教・正一教を調べてみてはどうでしょうか?



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太平道とは、于吉によって創始された太平経(太平清領書)を張角が受け継ぐことにより太平道となり、宗教結社に発展し、五斗米道(張陵)と共に後漢末の社会反乱の一翼を担うに至ったのですが、中平元年(184)黄巾の乱が制圧され張角兄弟とその一党が壊滅すると共に短期間で姿を消します。その教法の一部は五斗米道に受継がれたといわれており、さらに北魏時代には寇謙之によって教団道教(天師道)となり北魏の国教となったものであるといわれています。

また、現在の正一教(道教)は後漢時代の五斗米道に遡るといわれている事はxxxx_xxxx_xxxxx_0000さんのご指摘のとおりです。



太平道の教義等について現存している書籍はないと思います。 張角自身に纏わる話は、伝説と言うほどの内容ではありませんし、あまり多いとは言えませんが、以下の書籍中に張角、于吉と「太平清領書」、太平道と五斗米道、「太平清領書」と張角 等の事が載っています(一部読み下しで入れてあります)。



『後漢書』孝霊帝の中平元年(184)、『後漢書・列伝・皇甫嵩』、『三国志・呉書・孫策伝』、『三国志・魏書・張魯伝』、『後漢書・襄楷列伝』、『資治通鑑・漢孝獻帝建安六年』、『資治通鑑・宋營陽王景平元年・寇謙之』、『中国仏教史・第一巻』鎌田茂雄 東京大学出版会



『後漢書・列伝・皇甫嵩』

「鉅鹿の張角、自ら大賢良師と稱し、黄老道に奉事し弟子を畜養す。跪拝首過し符水呪説を以て病を療し、病者頗る愈ゆ。百姓之を信じ向ふ。角、弟子八人を四方に遣はし善道を以て天下を教化し、転た相い誑惑す。十餘年閒に衆徒數十萬、郡国に連結して青・徐・幽・冀・荊・楊・兖・豫八州の人、畢(コトゴト)く應ぜざるは莫く、遂に三十六方を置く(方とは將軍號也)。大方は萬餘人、小方は六七千、各渠帥を立てる。訛言して「蒼天已に死し、黄天當に立つべし、歳は甲子に在り、天下大吉」と。白土を以て京城寺門及び州郡官府に書し、皆甲子の字を作る。中平元年(184)、大方馬元義等、數々京師を往來し中常侍封諝・徐奉等に内應させ、三月五日を以て内外倶に起たんと約す。未だ作亂に及ばずして事露われ、元義は洛陽で車裂、宮省直衞及び百姓の張角の道に事へる者千餘人を誅殺す。張角、晨夜に馳せて諸方に勑し、一時に倶に起つ。皆な黄巾を著け標幟と為し、時の人、之を黄巾と謂い、亦名づけて蛾賊と為す。」

*中平元年(184)黄巾の乱は皇甫嵩に制圧され、張角の兄弟は処刑、既に病死して葬られていた張角の墓は発かれ棺を剖き屍を戮し首は京師に送られた。結果として太平道は短期間で姿を消します。



『資治通鑑・漢孝獻帝建安六年』『三国志・魏書・張魯伝』

「太平道では、師が九節杖を持って符祝し、病人は跪いて叩頭し、罪を懺悔し、師は之に符水を飲ませる。病が早く治れば、則ち此人は道を信ずと云い、愈ざれば道を信ぜずと云ふ。」

一方、同年代の道教である五斗米道は「妖術を以て人の為に病を療し、病家は治療してもらうと五斗の米を出したので、五斗米師といった」とあり、其の教義は張角の太平道とほぼ同じであるとも書かれています。



『後漢書・襄楷列伝』 太平道の祖・于吉の事(『三国史演義』では于吉仙人)。

「初め順帝の時、琅邪の宮崇が闕に詣り、其師于吉が曲陽泉水上に於いて得し所の神書百七十巻を上る。皆縹白素・朱介・青首・朱目にして「太平青領書」と號す。其の言は陰陽五行を以て家と為し、而して巫覡の雑語多し。有司、宮崇の上る所は妖妄不經なりと奏し、乃ち之を収臧す。後に張角頗る其書を有す。」



『三国志・呉書・孫策伝』

時に琅邪に于吉といふ道士有り。先に東方に寓居し呉會に往来し、精舎を立てて焼香し、道書を讀み、符水を制作し以て病を治す。呉會の人多く之に事ふ。

『志林』に曰う、初め順帝の時(126~144)、琅邪の宮崇闕に詣り、師于吉が曲陽泉水上で得たという神書を上る。白素・朱界にして「太平青領道」と號す。凡そ百餘巻。順帝から建安中(196~219)に至るは五六十歳、于吉は是時、已に百年に近し。



『資治通鑑・宋營陽王景平元年・寇謙之』

崇山の道士寇謙之、張道陵(後漢の人で五斗米道の天師)の術を修め、自ら言ふ、嘗て老子の降るに遇へり。謙之に命じ、道陵に継ぎて天師と為らしめ授くるに辟穀軽身の術及び科戒二十巻(今の道家の科戒は此に始まる)を以てし、之をして道教を清整せしむ。」



追記:現在の正一教が後漢時代の五斗米道に遡るといわれているとしても、そこから五斗米道の教義を知ることも、ましてや短期間で滅びてしまった太平道の教義の片鱗すら知ることは難しいと思います。何しろ1800年も前のことですから。

『三国志・魏書・張魯伝』『資治通鑑・漢孝獻帝建安六年』等の張魯・五斗米道から太平道の教義と共通する部分を探すほうが近道ではないかと思いますが、如何でしょう?

五斗米道の説明には、随所に“ほぼ太平道に同じ…”の文言があります。

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