三国志全体で賢明だった人ベスト5を選んでください
理由をしっかり付けて答えてください
最近三国志に興味があるためそちらのことを聞いてみたいです。
ちなみに僕の意見だと、 1位孔明 2位司馬懿 3位荀イク 4位程イク 5位郭嘉
ぐらいではないでしょうか?
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おそらく質問者さんは「賢明な人」=「知力の高い人」という意味合いで質問なさっているような気がしますが…(^_^;
賢明な人という場合、私は「ものの道理に通じて善悪の判断がきっちりできる人」というふうにとらえます。「賢明」という言葉がそういう意味だからです。
ですのでそれに順位などはつけられません。優劣を競うたぐいのものではありませんから。
私が三國志上で賢明だと思うのは
諸葛亮
曹操
魯粛
諸葛瑾
荀イク
数が多いので到底絞りきれませんが、とりあえず5人挙げてみました。もちろん順不同です。
一応、「知力の高い人」という意味合いでも5人挙げましょう。こちらも統一した知能テストなどを実施した訳でもないので順位はつけません。そもそも5人に絞れるものでもないので(^_^;
諸葛亮
司馬懿
曹操
荀イク
賈ク[言羽]
三国志シミュレーションなどでよく見る「知力」の数値の高い人々なら、おおむね以下の通りです。
諸葛亮
司馬懿
ホウ統
賈ク
郭嘉
作品によって少しずつ違いはあるし、これも5人に絞りきれませんが、基本的に毎回上位に顔をだすのはこういった面々です。
「賢明」というのが「知恵」ではなく「知識」という意味合いで考えておられるのであれば、やはり学者が上位を占めるでしょう。
蔡ヨウ
王粲
宋忠
司馬徽
管寧
いずれも単純に5人挙げただけであり、私の人選が絶対的なものではなく人によっては異論があるであろう事をお断りしておきますね。
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1、諸葛亮(しょかつりょう)
理由は言わずともわかるでしょう。
2、龐統(ほうとう)
鳳雛(鳳凰の雛)と謳われ、諸葛亮と並び称された。
3、郭嘉(かくか)
曹操に古くから仕えていて、自分が死ぬ際に曹操に「司馬懿」という人物
を紹介」した。
4、司馬懿(しばい)
時代の後半に諸葛亮と数々の激戦を繰り広げた。
5、李儒(りじゅ)
董卓軍の元官房。知名度は低いが、なかなかの切れ者。
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生き方や物事の考え方、さらに乱世の人間らしく軍事的な部分も合わせてみます。もちろん独断と偏見です。
1.賈詡。理由?Wikipediaでも覗いてください。鳥肌が立つほど頭が良い。
2.諸葛亮。出世できそうな君主を選び、その人を大成させ、しかも裏切ることも無く、それどころか保身すらも感じさせることないほどの忠誠心。軍事も賈詡には及ばずとも一流。
3.郭嘉・荀彧。この2人は曹操の知恵袋ですからね。ただ郭嘉は素行と短命なのが、荀彧は晩節がちょっと残念なのが頂けない。荀彧は己が悪いわけじゃないんでしょうけど…
4.司馬懿。賈詡にも負けないぐらい頭は良いんでしょうが、何か嫌い。
5.魯粛。己の財産の半分を孫呉に与える先見の明、さらに時代を見通す目が凄い。ただ一度孫呉を見放そうとしてるのがね…孫策が死んだ呉に期待が出来なかったのは分かるけど。
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どうしても軍師を選びたくなりますね。
ただ、三国志演技や漫画の三国志は物語なので、美化されている部分も多いですから、冷静な視点で選んでみますね。
もちろん、僕も質問者さんのベスト5にはわくわくしますが。
1位 しょうえん
孔明存命中は、蜀の内政をつかさどって孔明の留守中をしっかり守った。呉との連携などの外交政策と、度重なる出兵にも関わらず、兵糧なども蓄えた功績は大きいと思います。
また、孔明亡き後は丞相として、蜀を守り抜いた。彼がもう少し長生きしていれば。。。
2位 周喩
赤壁の戦いで、数倍もの魏を退けた軍略は、実際はほぼ周喩の策だと言われています。孫堅が亡くなり、領土なしの孫策を支えて、呉を建国できたのも周喩がいてこそでしょう。また、赤壁後はすかさず遼東半島の制圧にまで行っています。魏に対して北からも船で攻める拠点をとりに行った判断は、すごいと思います。
3位 司馬仲達
低い身分だったのを曹操に見出され、懐刀となる。2代目曹否、3代曹叡にも仕え、まさに魏を支えた。
蜀の北伐に対しても、全て防ぎきり、同時に呉の連携をも抑える。また、遼東の公孫氏の燕も滅ぼすなど、戦略家として素晴らしい。
彼の孫が魏を滅ぼして晋をつくるわけですが、おそらく卑弥呼の使者とも会っていたでしょう。
4位 かく
董卓の元で智謀を働かせ、曹操を苦しめた。謀略のすごさでは一番では?その後も魏においても諜報や情報戦を重視。近代的な戦略眼を持った人だったのだと思います。
5位 諸葛亮
やっぱ入れたいですよね。最近の研究では、諸葛亮の采配にはおかしいところもあったという風にも言われています。
例えば、魏に対する北伐で常にキ山を選び、結果的に常に敗退したという事実があげられています。
孔明がいつも同じ戦場を選んだのは、地理や情報に疎かったからだとも言われます。それでも、劉備亡き後、弱小国家である蜀を統合したのはやはりすごいことです。
イメージしてみると、魏の人口が100ならば、蜀の人口は10くらいなものです。そして、魏が支配する中原は豊かな土地ですが、蜀は荒れ果てた山奥です。
日本で言えば、島根県が関東地方を相手に戦い続けたようなものです。これはやっぱすごいですよね。
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