2012年3月26日月曜日

三国志が有名ですが、虐殺・略奪・強姦・奴隷化の雨あられだったというのは真実な...

三国志が有名ですが、虐殺・略奪・強姦・奴隷化の雨あられだったというのは真実なのでしょうか?

諸葛孔明や劉備玄徳、曹操などなど。魏・呉・蜀の三国が天下を争った有名な話ですが、知人から実際は、それぞれの将軍に従っているにすぎない敵国民への虐殺・略奪・強姦・焼き打ち・奴隷化の雨あられだったらしいと聞きました。



あまり、信じたくはないことですが諸葛孔明なども自らの軍勢へ、敵国民への虐殺や略奪・強姦・人攫いなどの行為を奨励して容認していたのでしょうか? ・・・あるいはそういう行為をしなければ必敗するのは目に見えていたのですかね。



それとも知人の認識が間違っているのでしょうか? 詳しい方ぜひ教えてください。


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これには異を唱えたいですね。



確かに正史『三國志』には「捕らえた敵軍の兵士を生き埋めにした」だとかの虐殺や、略奪・強姦・人攫いなどの記述が出てきます。なので行われていたのは間違いないでしょう。

しかしこれは「そういった行為がニュースになる」から特筆されたものであり、決して一般的に日常的に行われていたのではありません。



また「秋毫(しゅうごう)も犯さず」という言葉があります。秋毫とは秋に抜け変わる獣の細い夏毛のことで、転じて「ごくわずか」の意です。

ごくわずかも犯さない、つまり民衆に対してほんの少しでも危害を加えないというのが古来から君子(立派な人物)としての条件でした。これを守る者は人格者で高潔な人物だと賞賛され、破る人物は低俗で野蛮な人間だと非難されました。



つまり古代より三國時代の頃までは、それらは頻繁に見られはしても非難されるべき行為で、当然の事例では無かったのです。



しかし、すぐ後の西晋時代は残念ながらそうではありませんでした。

晋を興した武帝・司馬炎の跡を継いだ恵帝は暗愚な人物で、そのため皇族の王達が実権を握ろうと次々に兵乱を起こします。八王の乱です。

王達は自軍を増強しようと、次々に北方異民族を傭兵として国内に呼び寄せました。彼ら北方異民族は、長らく「蛮夷」として蔑まれてきた怨みをこの時とばかり発揮します。

敵兵や住民は虐殺し、強姦し、家財は略奪し、ありとあらゆる蛮行を繰り広げたのです。しかも敵陣の勢力を削ぎたい王達はそれを抑えようとしませんでした。

たちまちのうちに華北は彼ら異民族に蹂躙され、草木一本に至るまで奪い尽くされたといいます。



「五胡十六国」「南北朝」といった数百年にも及ぶ大分裂時代はそのような暗黒の時代であり、これ以降、質問者さんのおっしゃるような蛮行が当然のように行われるようになるのです。



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三国志はそれぞれが漢字で名前をふられみんな漢民族みたいに思ってる人が多いですが格州によって人種も民族も微妙に違う国同士の戦いであり漢というのはローマ帝国のようにいろんな人種を同じ価値観によって支配した物と考えてもらったほうがいいです。

なのでアニメのように地方同士の将軍や兵士が同じ言葉を話した証拠もないですし言葉自体下層に行けばいくほど通じないと考えたほうがいいです。

言葉が通じなければ虐殺行為などはエスカレートする傾向が強いですからそうした意味では負けた地域の人は人間扱いされないのがあの地域の普通の慣習です。

そもそも儒家などの考え方は中原の漢民族や殷・夏の構成民族が作ったのではなくそれ以外の地域から知識人とともに入ってきたとするのが一番整合性があると思われるのでそうした道徳的なものは馴染みの浅い人たちなので勉強しているはずの上級官僚でさえ虐殺・略奪・号館・人攫いなどをわりと平気に行う場合が多いです。


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あまり信じたくは無いですが事実と思われます。



劉備の軍勢などでは、巴蜀攻略のときなどが挙げられるでしょうか

さきごろ、テレビ東京のアニメ三国志でも蜀の攻略の件を描いておりましたが、どちらかというとアニメのように劉墇は城中に精鋭三千の兵と一年余りの兵糧があったにもかかわらず、民衆や農家の苦難を慮り割とアッサリと降伏します。



その後、劉備の軍勢は成都に入城を果たしますが、このとき成都の宝物を兵士に略奪するに任せております。



張飛の嫁も攫ってきたとかどうとか曰くもありますし

その後の孔明が北伐するに当っては、五丈原などの土着の農家などに迷惑をかけないように略奪を戒め屯田しておりますから

時と場合によっては略奪を黙認するときもあり、軍規を引き締めるのを優先するときもありうるということでしょう。


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事実というか、それが古い時代の「当然」です。

三国志に限らず、世界共通ですよ。

推奨していたというより、それを認めなければ戦争になりません。



戦争では多くの兵を集めねばなりません。兵には当然報酬の支払いが必要ですが、高額の報酬を支払っていては数が揃いません。当然のように賃金は安くなります。あるいは財政状況によっては報酬支払いが遅れたり止まったりします。

そんなありさまでは、兵が命をかけてくれるわけもない。それなりの見返りが必要です。

略奪、強姦は、それ自体が報酬の一種なのです。これを禁じたら兵はさっさと離脱してしまいます。



三国志演義で、たしか陸遜が兵に略奪を禁じるシーンがあったと思いますが、わざわざ禁じるくらい略奪は当然の行為で、それを禁じることには高いリスクがあったのです。



日本でも、大阪夏の陣の屏風に、奴隷狩りの様子が描かれています。

略奪や奴隷狩りは足軽達にとっては当然の「報酬」に過ぎず、あたりまえのことでした。こういったことが「いけない」とされるようになったのは国民軍が登場し、さらに時代がかなり後になってのことです。それでも無くなりはしませんけどね。


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>敵国民への虐殺や略奪・強姦・人攫いなどの行為を奨励して容認していたのでしょうか?



容認していました。

国土が広い中国では一度徴兵されると何カ月もも故郷を離れ、その間の実家では大事な働き手を失うことになるので、故郷には手土産を持って帰らないと錦を飾ることができませんでした。だから、兵士が略奪をするのは当然の行為とされていたのです。

さらに、兵士の士気を上げるためには強姦、戦いの中で生まれた兵士の怒りや憎しみを鎮めるには殺戮が有効な手段でした。

「孫子の兵法」も解釈によっては上述の行為を奨励していると見ることもできます。

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