2012年3月28日水曜日

三國志の質問ですが 諸葛亮は自らを楽毅、菅仲になぞらえていた自信家だったのに何...

三國志の質問ですが

諸葛亮は自らを楽毅、菅仲になぞらえていた自信家だったのに何故劉備に仕える事を選択したのでしょうか?
そんなに自信があるなら曹操に仕えても良かったのではとおもいますがやはり劉備に仕えた方が自分のやりたいようにやれるから劉備を選択したのでしょうか?曹操の部下は人材豊富で優れた人物が当時からたくさんいまし曹操自身が優れた政治家であり軍略家であったから自分に全権ゆだねてもらうのは難しいとかんがえたからでしょうか?

ある三國志の資料には諸葛亮が蜀でトップに立てたのは人材が不足していたからで魏に仕えていたら人材豊富なあまりそんなに目立たなかったとの意見ありましたがどうでしょうか?

ですが諸葛亮が蜀で手腕を発揮したのはまぎれもない事実なので三國志中ではトップクラスの人物だとおもいます。

皆さんのご意見よろしくお願いします。


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東晋の史家・裴松之(三国志を注釈した人物)は諸葛亮が魏に仕官しなかった理由について「諸葛亮がもし魏に仕えていたら、陳羣や司馬懿でも対抗できる相手ではない。ましてや他の者ならなお更だ。それでも魏に仕えなかったのは、国の衰亡にあって皇族の英傑を補佐し、漢朝の再興を目指したいと考えていたからだ」

と述べています。

諸葛亮の評価ポイントとしては、流浪の劉備軍を皇帝まで押し上げた戦略と公平な政治、簒奪も出来たのに幼帝を補佐して最期まで忠義を貫いている点でしょうね。

蜀漢後期は確かに人材不足が目立ちますが、その中にあって政治と軍事を両立させる才能というのは異常なんです。中国史で政治・軍事を両立させた人物はそうそういないと思いますよ。ライバルである司馬懿からも「天下の奇才」と評されてますから、演義での脚色を差し引いても超一流の人物であることは間違いないでしょう。



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魏の曹操の知恵袋、名うての軍師司馬忠達さえ、諸葛亮には敵わぬ相手で、後世に歌われた「死せる孔明生ける忠達を走らす」(五丈原の戦いの際に孔明の計略で、忠達は物笑いの種にされた)其の天才戦術の才覚を持ってすれば曹操の家臣でもNO1に成れたでしょう。だが、彼は「忠・義・仁」を重んじ生きる高尚な人物で、ただ単に己の出世だけを臨むただの野心家ではなかったのです。そして運命的な出会いがあり、劉備玄徳という誠実で民の平和のに為に尽くすという徳のある人物に惚れたのであった。魏の曹操みたいな梟雄(腹黒な野心家)にない赤心の玄徳に自分(諸葛亮)を高く買ってくれ理解してくれることに、「士は己を知る人のために死す」と劉備に心酔していった(劉備の孔明への誠意の証は{三顧の礼}で有名)、そして劉備玄徳・関羽・張飛の「桃園の誓い」(義兄弟の誓いあった仲)の三人に天才軍師諸葛亮が加わり固い絆で結ばれ、蜀漢建国の志で彼らの波乱万丈の人生が幕を開けるのです。その計画に際して孔明が取った大構想が現在の天下(国)を三分にする深謀遠慮だったのです。ここに三国志がスタートする次第です。以上のように、孔明自身は天下取りの野心家のような梟雄タイプでなく、劉備タイプで知恵雲が湧くが如しの天才だったが、あくまでも義の人だったのです。


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諸葛亮が管仲、楽毅になぞらえたのに劉備に仕えた理由ですよね。



それはなぞらえた管仲や楽毅がどんな人物かを考えればわかることです。





管仲は、当時「弱小国」だった斉を覇者にまで押し上げた名宰相

楽毅は、同じく「弱小国」だった燕をさらに弱小国へと押しつぶそうとした斉に対して報復をし、ほとんど斉を滅ぼすところまで追い込んだ名将。





つまり、「弱小国」の将軍や宰相になって、その国を覇者にするのが、諸葛亮の夢なわけです。



徐州の虐殺もあって曹操には元々仕える気はなかったでしょうが、それだけでなく、自身が持つ夢を叶えるのに適任だったのが劉備だったと言えるのです。


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陳舜臣の『諸葛孔明』にその答えらしき文面がありましたので、一言。

孔明は181年ロウ邪郡に生まれるが、13歳の時陶謙の部下が曹操の父親を殺める事件が起こり、激怒した曹操は徐州に軍を進めた。「数十万の住民が殺害され、犬一匹も残らず、泗水の流れは死体の山でせき止められた」といわれるほどの殺戮ぶりが伝えられている。そのなかに孔明がいたとかんがえられている。孔明は戦火を逃れ弟をひきつれ叔父の諸葛玄をたより揚州に逃れる。この体験がその後の孔明の考え方の元となったのではないか。

孔明は10代のうちから曹操に対して憎しみを抱いていたと考える。従って曹操と常に正反対の態度をとってきた劉備に仕えたのではないでしょうか。

IF、孔明が魏にいたら・・・ですが、荀彧の下で程昱の上位の位置にいたのではないかな。(個人的趣味です)


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人がゲーム理論のような最大利得だけで動いているのなら確かに曹操につくべきだったし、当時のまだ無名だったときの孔明もそれが理想だと捉えた筈です。そうならないから歴史はまた面白いんですね~(数学や結婚とは違うよな)。

劉備がとても人に好かれ頼られる人物だったからと書かれてますし、三顧の礼が決定的だったのでしょう。

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