三國志の呉に甘寧(かんねい)という将がいますが、どういう方だったんでしょうか?
三國無双の中で浮いてる存在(私の中ではいい意味です)なので気になりました。
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私はゲームをしませんので、三國無双の描かれ方はわかりませんが、
たしかに、地方の名門豪族の集合政権である「呉」では、
有名氏族とは一線を隔した、その出自は異彩ですし、
理解者はいたものの、アウトロー路線を突っ走った感はありますね。
質問者さんが仰るように、いい意味で浮いている存在に感じられます。
【甘寧(かんねい)】生年不詳~222年。
字は興覇(こうは)。巴郡臨江県四川省忠県の人。
若いころから任侠を好み、不良少年を集めてその中心になっていたといいます。
鈴を常に携えていたので、鈴の音を聞いただけで「甘寧」だと分かったといいます。
甘寧の地元では、強盗や傷害事件があると、
甘寧一味が摘発と制裁にあたったといいます。
地方の警察権限を持っていたわけです。
このあたり、江戸時代のヤクザが十手を与えられて、
形ばかりに治安維持を担ったのと似ていますね。
甘寧は、「江賊」とか「海賊」とかいわれますが、
表向きは「官吏」で、警察権すら持つ「名刺だけは堅気」の人間だったようです。
やがて学問に感化され改心した「甘寧」は、
志を抱いて手下・食客800人を引き連れて、
荊州牧の「劉表」に仕えますが重用されず、
官渡の戦いで「劉表」が日和見を決めこんだことも失望して、
荊州を去りますが、
通過する地方を占拠していた「黄祖」に身を寄せます(草鞋を脱いだ?)が、
ここでも冷遇されます。
この時、黄祖軍として孫権軍の「凌操」を討ち取るなどの手柄を立てますが、
これが後に、「凌操」の息子「凌統」の恨みを買うことになります。
その後、情勢を判断し「孫権」に身を寄せます。
「周瑜」・「呂蒙」に推挙されると、
「孫権」に父(孫堅)の仇である「黄祖」の討伐を進言します。
「孫権」は、黄祖討伐の軍を編成し、見事これを打ち破って黄祖の首を取ります。
この件は、『正史』では、「呂蒙」、「凌統」、「董襲」が軍功をあげ、
「黄祖」を討取ったのは「馮則」ですが、
『演義』では「甘寧」のキャラクターをほって置かず、
「甘寧」が大活躍し、「黄祖」を射殺した、となっています。
赤壁の戦いでは、『正史』には活躍の記載はありませんが、
『演義』では大活躍で、前哨戦の「三江口の戦い」では、
先陣を切って敵将・「蔡勲」を射殺しています。
「黄蓋」の苦肉の計では諸将に先立って助命を嘆願し、
「カン沢」と共謀して曹操の「埋伏の毒」である「蔡中」・「蔡和」を欺いています。
赤壁後、「周瑜」は南郡に「曹仁」を攻めますが、
かえって夷陵で「曹仁」の猛攻を受けます。
夷陵を守る「甘寧」は味方の援軍が来るまで城を守り抜きました。
216年、「曹操」が濡須口に攻め寄せると、
100人余りの精兵を率いて奇襲をかけ、曹操軍を大混乱に陥れました。
「孫権」は喜こんで、
「曹操には張遼がいるが、わたしにも甘寧がいる」と溜飲を下げたといいます。
『演義』では、海賊出身の武将として「凌統」との確執が強調されます。
(後日和解しました。)
『演義』では、
夷陵の戦いにおいて病床の身を押して出陣し、
沙摩柯の矢を受けて戦死しています。
矢を頭に受けたまま馬に運ばれ、
富池口の大樹の下で事切れた、となっています。
また一説には、戦死して長江に落ちましたが、
首を取ろうとする蜀兵に数千羽のカラスが襲い掛かり、
そのため蜀では首級をあげることが出来ず、
甘寧の遺体はそのままカラスに守られながら富池口に流れ着いた、といいます。
カラスが首を守ったあたり、鶴とか、鳩でないところが、
いかにも甘寧らしいですね。
富池口は現在の富池鎮で、甘寧の聖地ともいわれます。
当地には昔から甘寧を祀る廟があったといわれています。
『正史』では、病死です。
湖北省陽新県富池鎮郊外に陽新甘寧公園があります。
重慶市万州甘寧郷に、万州甘寧故里という遺跡もあります。
http://kankouha.cool.ne.jp/yiji/huazhong1.html#25
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実は益州出身で無頼の徒を糾合してヤクザの大親分に。その後一念発起して荊州へ。しかし劉表や黄祖に冷遇され孫権に仕える。天下二分の計を進言。その後数多くの戦いで活躍。無頼肌は抜けなかったようで、呂蒙の部下を射殺したりしてます。
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若い頃は遊侠の徒というか、ひらったく言えばちんぴらたちの親分。役人たちにも情け容赦なく襲撃をかけることもあり。
しかし孫権に仕えてからはその度胸と勇猛さで魏に張遼あれば呉に甘寧ありと言われるような活躍をします。
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