三國志の質問ですが
鍾会、とうがい、は蜀を滅ぼした功労者ですがどれくらい優れた人物だったんですか?
これらも三國志後期の人物でよく知らないのでキャリア等ご説明お願いします。この二人は三國志初期、中期の人物と比較しても遜色はないですか?
|||
打つ時間がないのでコピペで
鍾会
中国、三国魏(ぎ)の武将。字(あざな)は士季(しき)。潁川(えいせん)郡長社(ちょうしゃ)県(現河南(かなん)省長葛(ちょうかつ)県の北東)の人、魏の太傅(たいふ)である鍾(しょうよう)の末子。司馬師(しばし)の軍師として丘倹(かんきゅうけん)の討伐に活躍、司馬師が卒すると、全権を引き継いだ司馬昭(しばしょう)のもとで引き続き作戦を担当する。諸葛誕(しょかつたん)の乱の際には、喪中にもかかわらず、いち早く司馬昭のもとにかけつけ、軍師として反乱の鎮圧に活躍した。また、反司馬氏思想の弾圧につとめ、「竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)」の一人で、曹室と婚姻関係をもつ康(けいこう)を死刑に追い込んだ。のち蜀(しょく)を征討するが、姜維(きょうい)が立てこもる剣閣(けんかく)を落とせなかった。この間に成都(せいと)で劉禅(りゅうぜん)を降服させた艾(とうがい)を、讒言(ざんげん)により失脚させ全軍を掌握した。遠征軍と旧蜀軍という巨大な軍隊を指揮下に置き、野心が芽生えた鍾会は、「失敗しても蜀を保持すれば、劉備(りゅうび)にはなることができる」と、旧蜀臣の姜維と結び魏に対して反乱を起こした。しかし、配下の胡烈(これつ)たちはこれに従わず、姜維もろとも鍾会を殺害した。
鄧艾
中国、三国魏(ぎ)の武将。字(あざな)は士載(しさい)。義陽(ぎよう)郡棘陽(きょくよう)県(現河南(かなん)省南陽(なんよう)県の南東)の人。吃音(きつおん)であり、また貧しかったので、はじめは高い官職につけなかった。のち使者として都におもむき、司馬懿(しばい)にみいだされ、対呉(ご)政策として運河を開き、淮北(わいほく)、淮南(わいなん)で屯田(とんでん)と輸送を両立させる案を献策、実行された。また、武将としては、蜀(しょく)の姜維(きょうい)と戦って、しばしばこれを破った。このため、鍾会(しょうかい)とともに司馬昭(しばしょう)より蜀の討伐を命ぜられ、剣閣(けんかく)にこだわる鍾会を尻目に、山道を果敢に進み江由(こうゆう)県を攻め落とした。緜竹(めんちく)に派遣された蜀の諸葛瞻(しょかつせん)は、子の諸葛尚(しょかつしょう)とともに父祖の名に恥じない戦いをしたのち陣没した。成都(せいと)の劉禅(りゅうぜん)は、姜維がなお剣閣を死守しているにもかかわらず、諸葛瞻の敗北を聞いて降服した。成都を占領した艾は、劉禅以下を手厚く待遇するとともに、続いて呉の討伐の準備を始めたが、その功績をねたんだ鍾会の讒言(ざんげん)により、謀反人とされて、命を落とした。
|||
鄧艾は貧しい出自で、吃音というハンデもありましたが、自らの能力で道を切り開いた人物です。
特に知略に秀で、その能力は傑物揃いの魏軍の中でも屈指の存在で、また人間的にも優れていたので、後に呉を滅ぼすことになる杜預をはじめとする多くの人々の尊敬を集めました。
しかし、その能力を恐れた司馬昭の陰謀により粛清された(私はそう見ます)悲劇の将です。
判官びいきは中国も同様のようで、死後多くの民衆からの崇拝を集めました。
曹操、劉備期の人物では、周瑜や張遼にも匹敵する能力の持ち主と見ます。
一方、鐘会は鄧艾とは対照的に、曹操期の重臣鍾繇の子として生まれ、幼少期からもの覚えの早さが知られ、将来を嘱望された名門の御曹司です。その博学さ、優秀さは群を抜いていましたが、一方で才能が故の強烈な自尊心と野心をも持ち合わせていました。また、ライバルを讒言により貶める人物だったともいわれています。
最後は、自分の野心を満たすために、蜀遠征時の同僚であった鄧艾を告発し追放。ここまではよかったのですが、さらに司馬昭にとって変わろうとし、姜維等旧蜀軍とも結託しましたが、部下に裏切られてあっさり殺されました。
名門出で才能豊かな人物でしたが、その野心に押し潰された最後と言えます。
曹操期の人物には、あまり類例がありませんが、魏延がもう少し知に寄った人物というところでしょうか。
いずれも興味深い人物です。
0 件のコメント:
コメントを投稿