2012年3月26日月曜日

三国志好きに質問です 蜀のホウ統が もし落鳳坡で死ななかったら 蜀は簡単に統一...

三国志好きに質問です



蜀のホウ統が

もし落鳳坡で死ななかったら

蜀は簡単に統一を果たせたと噂ありますが

まず、歴史が変わるとすれば

荊州を守っていた関羽とホウ統か諸葛亮が加わり

呂蒙の罠を防せげた あるいは無事に逃げるかして関羽は救われ

それによって夷陵の戦いも起こらないから劉備と張飛も死ななかった



ホウ統の死で諸葛亮がホウ統の分までの仕事をこなしていて

疲労がたまっていたから 五丈原の戦いで過労死?した

ホウ統がいたらもう少し長生きできただろう?



魏の曹操は、関羽の死から病気になり 墓みたいなのを建てようとして

なかなか切れない大木を曹操が切ったらそこから血が出て? 浴びて

それが原因か?死んでしまい、後を追って夏侯惇もいっちゃった

が、この2人もこの時期に死ぬことはなかっただろう。

父の後を継いで早くも魏王になった曹丕ももう少し長く生きたかな?



呉は呂蒙が呪死することもなく、孫尚香も自殺することはなかっただろう



どっちにしてもここに挙げた人達はちょっと命が伸びただけか?

ホウ統1人で歴史なんか大きく変わらなかっただろうか?

または皆生きていても別な戦が起こって簡単に蜀は総崩れになったのだろうか?


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龐統が落鳳坡で伏していた益州軍の張任に射抜かれて戦死したのは有名なお話ですが、この地名も原因も三国志演義の著者の羅貫中の作り話で架空のお話ですね。



歴史の事実では龐統は雒城包囲戦の最中に射抜かれて戦死してしまいました。

質問者様は小説のお話を歴史の事実だと思い込んでいる節があるようですが、史実を元に描かれたので事実もありますが、大半が脚色されたり話を入れ替えられたり作られた架空の話があります。



三国志演義のお話は歴史を元に作られてた小説なので物語では作られた話が多々あり歴史の事実を書いたものではありません。古くから現在、三国志と呼ばれている本が2種類あり、ひとつは歴史の本で正史(*正史とは国家公認の正統の歴史書)、もうひとつは小説です。歴史書のほうは西暦三世紀にできたもので、小説は十六世紀ごろにできたものです。小説の物語の方は「三国志演義」と言うのが本当の題名なのですが、私たちの国ではこれも「三国志」と呼ぶので、ごっちゃになっていますね。



そして、龐統は益州軍にすらと戦って戦死して敗北しているようでは魏や呉にはとうてい勝利なんてできないでしょう。前線にいすぎです、兵法を熟知しているのか疑問に思ってしまいます。

龐統が生きていたとして諸葛亮と北伐を成しとげれるなんてとても思えませんし国力と将の人材不足で無理だと思います。

蜀の人口は約94万人に対して魏の人口は約443万人と言われています。ちなみに呉は230万人です。蜀と呉をたしても魏におよびません。兵数はそれに比例します。龐統が生きていても大きく歴史が変わる事はないと思います。



私は三国志演義はもちろんのこと三国志の史実に関する書を多々読み、さらには孫子の兵法書や北京大学考古系に留学(文部科学省交換留学)の中国考古学ならびに中国軍事歴史を専門に詳しいバトルマスターこと来村先生の書をいくつか読んでいますが、蜀にどう考えても天下統一を成すのは国力や人材不足で無理と思います。



ちなみに関羽さんはプライドが高く入ったばかりの黄忠と五虎将とゆう同じ位が納得いかいと不満に怒ったり、目上の名士層や文臣に対して横柄で驕慢であったとあり。文人官僚だけでなく他の武将達からも関羽は、同じ劉備陣営の武将たちに好意を持たれていなかったとゆうヤッカミの強い人物だったことも例が多く挙げられています。馬超が加わった時には自分とどっちが上だと問い、関羽が上だと返事したら、大いに満足してその手紙を人に見せまわったとゆう記述もあります。劉備の武将の中で自分が1位でないと承知しなかったようです(本伝)。

なので諸葛亮も関羽には手を焼いていたようですので、龐統か諸葛亮が加わりとゆうのもうまくいくような気はいたしませんです。



あと、蜀主の劉備とその側近は、もともと流浪の一行であったものが、荊州の劉表を頼りに身を寄せてきた他所者にすぎなく、蜀の土着の士人層との間に心からの君臣関係が結ばれにくい面があったようです。後に劉禅の代になって、魏の大軍が蜀に来たとき、ほとんど抵抗らしいこともできずに蜀が降伏したのは、蜀の士人間では劉家のために必死で戦おうとの気魄を欠いていたからにほかならないと解説書にあります。



おまけですが、それぞれの息子を見てもダメ息子で諸葛亮の子の諸葛瞻は高い位もらって若いとはいえなにしていたんだと言いたくなります。父の志をめざして蜀のために頑張ってほしかったですがなにしたんだと言いたくなります。すごい弱いです。

そして更にダメ息子が龐統の子の龐宏で性格に問題があって、涪陵の太守どまりで終わちゃいました。戦場には無関係のようですね。



あ、長くなってしまいましたが曹操や呂蒙のその死因も小説上のことで、実際の死因とされてるのは違いますよ。



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龐統と法正が生きていれば諸葛亮は内政に専念できたでしょう。激務もなかった思うので少し長生きしたかも知れません。あとは荊州の件で呉とうまくやっていれば....

その2件で魏の勢いが鈍ればその間に司馬氏がクーデターをおこして魏は倒せたかも、その後はどうでしょうかね?

あと龐徳が馬超と蜀に来てほしい。

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