三国志でよく大将クラスの人たちが一騎打ちしてますが、実際の戦闘で行われてたんでしょうか?
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『三国志演義』ではよく登場する戦場での一騎討ちですが、正史である陳寿の史書『三國志』ではあまり見かけませんね。
記述が簡略すぎるというのもあるでしょうが、確認できるものとしては揚州制圧時の孫策と太史慈、それと若き馬超と閻行、このふたつぐらいですかね。
ちなみに孫策vs太史慈は敵味方が乱戦になったため痛み分け、馬超vs閻行はフルボッコにされて馬超の惨敗です。
にわかには信じられないと思いますが、馬超は「ほとんど殺されかける所だった」とまで明記されています。
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日本では伝統的に一騎打ち制度がありました。
中国にはありませんので、三国志の一騎打ちは創作です。
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まあ、そんなにお行儀のいいことはやってなかったでしょうね。
見せ物としての三国演義での一騎打ちはなんと言っても
剛勇で唸る猛将たちの華の舞台。
これを語る側も、聞く側もテンションが上がるような話に仕立て上げた
かった、そういうものを聞いて拍手喝采を浴びせたかった
という事は十分ありえると思います。
関羽の顔良斬り、演義ではお膳立ても整ったところでいよいよ真打登場!
バッチリ決めてくる千両役者関羽最高!!
となるわけですが、正史では顔良軍の旗印を見るなり
関羽はその万衆の群れとも称される軍中に突っ込んでいき
迫りくる無数の剣戟を掻い潜り、打ち払い
結果として陣奥の大将首を自分の槍で上げてしまうという
物凄い事をやってのけてるので、演義の顔良斬りより凄いんですけどねw
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その通り。当時は、軍VS軍が入り乱れて戦うというよりも、大将VS大将が、軍を代表して一騎打ちするという風習がありました。
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さらに言えば孫策と太史慈は戦場ではなく両者偵察に出歩いていたときにバッタリ出くわしただけ。名乗りを上げることもなく太史慈が有無を言わさず襲い掛かってます。ちなみにこの時孫策側は13人の集団、太史慈側はわずか2人。そんな状況で迷わず特攻する太史慈は普通じゃありません(汗)馬超と閻行は戦場でやりあったみたいですが、馬超が半殺しにされる流れ以外は記述が少なすぎて何とも言えません。
他には呂布対郭汜という一騎打ちも正史にはあります。これはどうやら我々が考える一騎打ちらしい一騎打ちだったようで、呂布が「軍勢を下げよ。一対一で勝負しよう」と言って正々堂々と勝負してます。結果は呂布が勝ったようですが、呂布相手に生き延びる郭汜も凄いかも。まぁ「矛を突き立てられたが、周りに助けられた」とあるので殺されるか捕縛される前に横槍が入った可能性もありますが。
・追記
質問に答えてないですね(汗)申し訳ないです。
自ら進んで一騎打ちをする、というこはまず有り得なかったでしょう。正史にそれらしい記述がほとんどないので。上記の呂布などは例外中の例外です。例えば関羽が顔良を斬ったときも、「…敵兵1万のただなかで顔良を刺し…」となっていて、乱戦の最中だったことが窺えます。黄忠が夏侯淵を斬ったときも同様。それも当然、大将が一騎打ちをして決着を着けるなら端から何万という軍隊なぞ要りません。2~3人護衛と死体の運び役を引き連れて国境で一騎打ちやれば済む話ですから。基本的に大将・指揮官は前線には立ちません。身の安全が第一です。「○○が○○を斬った」という記述の大半は、身分が一部隊長に過ぎず、少数の手勢で敵陣に突っ込んでいって偶然大将を斬っただけでしょうね。
一騎打ちが頻繁に行われていたなら戦闘の度に大将クラスが斬り合いしててもおかしくありません。ですが、戦死のほとんどは矢で射殺されるか乱戦の中死ぬかどっちかです。上の方の言うような文化があったなら、もっと「○○は○○を斬った」という具体的な記述があるはずですが…
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時代がずいぶん下った水滸伝でもひんぱんに行われていますし、日本でも「やあやあ我こそは」と呼びかけた一騎打ちは戦国時代まで続いてますので、珍しいことではなかったと思いますよ。
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それを知るにはタイムマシーンでも作って見に行くしかないです。
憶測ですがわたしは行われてなかったんじゃないかと思います
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