2012年3月18日日曜日

三国志(三国志演義)でやたら多い伏兵戦術について

三国志(三国志演義)でやたら多い伏兵戦術について

三国志(三国志演義)を読んでいると伏兵を使った戦術がよく出て来ます。

それはこういうものです。

大将同士が一騎討ちをする、または軍勢がぶつかり合う→一方が負けたふりをして逃げる→もう一方がそれを追う→ここで伏せていた兵が追撃して来た兵を挟撃する。

このパターンが非常に多いです。横山光輝の漫画だとしょっちゅうです。

そんなに簡単にいくものか不思議です。

やはり三国志演義に多い作り話でしょうか?

正史は読んだ事がないのですが・・・


|||



そんなに、有効な戦術なら、どうして、互いに同じ事をしないのでしょうねえ?

そもそも、何千何万の軍をどこに隠す?敵は偵察隊を出さないの?



そもそも、近代以前は、正確な戸籍も無いから、出兵人数も不正確だし、正確な地形図も無いから、武将本人すらも、どんな陣形で、何人で戦っているのか正確には解りようがありません。

一級史料や正史でも、戦争の記述なんてあてにならないし、まして、演義や軍記物なんか創作だらけでしょう。



ちなみに、1600年の関ヶ原の戦いの人数は、帝国陸軍が大名の石高から推測したものであって、本当の出兵人数なんて解っていません。近代以前はそんなのが普通です。1800年前の中国の正史ですら、そんなに正確ではないだろうし、演義なんて論外でしょう。



|||



伏兵戦術はなにも三国志の中だけのものではありません。



日本でも島津得意の「釣り野伏せ」はいわゆる伏兵戦術で、戦国時代にはとても有名な戦術だったようですが相手はどうしても引っかかってしまったみたいです。



この戦法で島津は九州をほぼ制圧してますし、朝鮮でも戦史上まれに見る大勝をしています。



レーダーなどが索敵技術の発達した現代の戦争ではあまり有効な作戦とはいえないかもしれませんが、三国志の時代からミノフスキー粒子でレーダーが使えないガンダムの世界までつかえる、定番の戦法だったととらえるのが良いのではないでしょうか?


|||



だって物語なんだもん。

失敗例なんて盛り上がらないし。

まあ、善玉を際立たせる為に悪玉(演義だと魏とか)がやたら失敗したり(孔明が見破るとか)、孔明が仕掛けたワナにドリフのコントのように引っかかったり記述してる場合もあるでしょうし。



失敗した計略とか伏兵戦術とかは物語(三國誌演義)に載ってる数倍~数十倍、ヘタすりゃ成功する方が稀で

「成功したらラッキ~」

程度の成功率だったかもしれません。

昔の記録でもワザワザ失敗した事はあまり記録に載せないですから。



創作もあるでしょうね。

「曹操の三笑」

も実際は無かったようですし(実際は行われたようだが、曹操が通過した後だったとか)



ただ、成功したら少ない兵力で大ダメ~ジを与えられるし、撤退を容易にさせるとかのメリットはありますから、多用はされたと思いますけど。


|||



ま、中国人は大袈裟に物を言ったりするのが大好きですしね。

8割が嘘と考えましょう。現代ですら公然と嘘だらけの教科書で教育してる国ですから。

赤壁を実際に見ればもっとよく解ります。こんなとこで何十万の兵とそれを乗せた船がぶつかり合えるわけがないって思いますね。

彼らは反日デモなどもそうですが、共産党員の呼びかけにお祭り感覚で集まってくるなどの楽観的な習性があります。

要はお遊び感覚だったり、盗賊に等しい軍隊が形成される傾向が強く、高名な猛将が突っ込んで来たり、不意打ちで劣勢になるとすぐに蜘蛛の子を散らす様に皆が逃げ出してしまうような大衆性も兼ね備えているので、少数の大軍に対する劣勢逆転なんてのは意外と事実も多いと思われます。


|||



伏兵という戦術は三国志の時代よりはるか400~900年前の春秋戦国時代には確立され、各地の戦いの中で多用されてきました。また、孫子などの兵法書にも伏兵に相当する戦術の重要性などが記されていたりします。

つまり三国志の時代には少し兵法をかじっている者にとって、周囲の地形がそれに適している場合伏兵は代表的な戦術の一つでした。



しかし、なぜ伏兵という戦術が馬鹿の一つ覚えみたいに使われても多くの将が騙されて嵌ってしまうのか、それを解くカギとなるかもしれない文章があります。





以下引用:

十九世紀半ばに起こった太平天国戦争の長沙攻防戦のエピソードがあります。清軍が長沙城を守り、太平天国軍がそれを攻めていました。清軍の司令官の向栄は、当時五十代半ばの老練な将軍でした。位階は提督でしたから、師団長に相当します。この向栄が数千の部下を率い、長沙城の西の湘江を渡って、対岸の太平天国軍を攻撃しようとしたのです。長沙の街を囲む城壁は、高さ数十メートルあって、そこで一般の市民や他の部隊の兵卒が、向栄軍の出撃を見物していました。対岸の河原に少数の太平天国軍兵士が守っている砦があり、向栄の大軍はまずそこを攻めたのです。じつはそれは太平天国軍の囮部隊でした。うしろの林の中に伏兵がいます。砦の囮部隊は、清軍(向栄軍)をそこに誘導する任務を帯びていたのです。清軍はまんまとこの作戦にひっかかりました。ところが、長沙の城壁の上から見物していた連中には、太平天国軍側の囮作戦がわかったそうです。林の中の伏兵まで見えたわけではありません。囮部隊の逃げ方が整然とし過ぎていたので、みんなひと目でそれとわかったというのです。見物衆はただの市民や兵卒で、なにほどの軍事知識ももっていません。それにくらべて、向栄は職業軍人でしたし、歴戦の将軍でもあります。それなのに、敵の逃げ方がおかしいのに気づいていません。渦中にあったからにほかならないでしょう。見通しはきかないし、敵を追うのに懸命で、状況を判断するゆとりもないのです。

(「中国の歴史(四)」 陳舜臣:著 講談社:発行 1991年版 pp.9-10より)





春秋戦国時代(紀元前7世紀)から清末(19世紀)に至るまで、中国では数多の伏兵作戦が敢行され、もちろん中国だけでなく世界中で行われ、その大半が成功しているのを、なぜ皆ひっかかっちゃうわけ?と我々が思うのは、岡目八目という事なんでしょう。伏兵だけではありません。どうして国王や国主がひどい失政を続けてしまい、国を滅ぼすまで気付かなかったのかなど、歴史を俯瞰的に後世から見るとアホらしく見える事が多々ありますが、当事者たちは渦中の中でそれに気付けなかったからだと思われます。


|||



昔の戦い方は、大将の一騎打ちが多かったみたいです。

日本でも、元寇以前は「やあやあ、我こそは・・・・・・」と言って、軍馬に乗った武将が名乗り合って、闘っていたようです。それが、元寇のときは、日本側が「やあやあ、我こそは・・・・・・」と言った途端に、弓矢を射かけられてしまい、それから、戦闘の仕方が変わったみたいです。

欧州でも、たとえばジャンヌダルクという映画がずいぶん昔に流行りましたが、あのときの戦争の仕方も、想像するよりもおっとりとした戦い方のようにも思います。そういえば、フェンシングが一騎打ちから生まれたスポーツだったような・・・・・・

0 件のコメント:

コメントを投稿