三国志の物語を、本や映画などでみていると、どこまでが史実なのか、作り話なのかが、よく分かりません。
有名な人物などは実在していたとは思いますが、よくある正義側と悪側などなく、皆が英雄ってことなのでしょうか?
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そもそも正義とは何で、悪とは何でしょうか。
日本史においても、たとえば今の大河ドラマの影響で、東軍が正義なのか西軍が正義なのか、そういう質問をされる方もいます。
また英雄とは何なのでしょうか。
その定義次第で変わってきます。
ただし、小説やマンガ、映画、ドラマの多くは、実際に編纂された一級史料であり正式な史書である三国志(魏志、呉志、蜀志)を基にした三国志演義という、いわば昔の歴史小説を基に描かれることが多いです。
そして三国志演義は、三国志の冷静かつ平衡的な書き方(これは中国の多くの史書も同じ姿勢ですが)ではなく、いわゆる判官贔屓及び勧善懲悪的な要素を盛り込み、劉備を主人公に据え、曹操をラスボス、悪役に据える構図で読者に受けるために脚色され描かれている作品です。
その為に多くの作品に於いて、劉備が正義の化身、曹操が悪の化身となっていることが多いですね。
また、演技を基とせず、三国志の方を基に物語を構成しようにも、三国志よりも三国志演義の方が中国はじめ漢字圏に広く膾炙した為に、多くの人々の中で、演技に記載される事を史実と勘違い、もしくはほぼそういう扱いとなっている事が多々ある為に、それに悩まされ三国志演技の影響を全く受け付けない作品が生まれにくいという実情もあります。
これらを踏まえた上で、悪という概念、正義という概念及び捉え方は、時代という時間的なものや、それぞれの立場や居場所といった空間的なものによって、容易に覆る概念である、という事です。
足利尊氏や徳川家康などの人物はその時代によって英雄視されたり悪とされたりと評価の変転の激しい人たちです。それはその評価をする時代の状況によってその反対派が幅をきかせたければ彼らを悪とし、自らを正当化し、その勢力が減衰すれば再評価が行われるという繰り返しがあった為です。
これが時間的な認識の変化の一例です。
アメリカの前大統領ブッシュが北朝鮮やイランなどを悪の枢軸と呼び、自ら(アメリカ)をこそ正義と決めつけました。
しかしそれは名指しされた国やアメリカに反感の強いイスラム過激派にとってはどうでしょうか?
これが空間的な認識の変化の一例です。
つまり正義や悪などという概念は実際には雲を掴むような幻であり、幻であるが故に小説などでは楽しさを引き出す調味料とでもいいましょうか、そういう要素にもなっているのです。
また英雄かどうかについても様々な見解があります。
戦争で勝ち続ける者を英雄と呼ぶのか、敵を切り殺すのがうまいものをそう呼ぶのか、負け続けても屈せず抗し続ける者を呼ぶのか、見事に勢力内を治めた者を呼ぶのか、自らの勢力を保つためにあらゆる手を使い、隠微な外交を行う者を呼ぶのか...
後漢末期から三国時代にもさまざまな著名人が名を馳せましたが、それぞれの人間像も様々です。
それぞれについて、内政に優れた者であった、軍事(戦略や戦術)に優れた者であった、戦闘能力、外交や調略、人材発掘...様々な面で優れていたかどうか、それはそれぞれの事蹟から評価する事ができます。
ただ英雄という言葉も幻です。その観念も正義と悪のように時に揺らぎ、覆る。
これもまた、小説や自分の趣向においての楽しみのスパイスであり、史実に接触するものではない、と私は考えています。
長くなりました。
決して正義や悪、そして英雄という言葉を軽んじたわけではありませんし、小説などの否定を行っているわけではありません。
ただ、私が言いたいのは割り切りです。
繰り返しますが、それらの言葉は史実と結びつくものではありません。
ゆえに個人個人が、彼を英雄、彼を正義、彼を悪、と個人レベルで思ったりする事は自由であり、それを誰も侵したり否定したりする権利がないという事です。
あなたがいろいろなものに影響されて迷う事も自由であり、侵す事が出来ない。
それは逆にあなたしか解決できない問題という事でもあります。
ただ、ブッシュのように公的な立場でそれを行うと外交的に軋轢が生じ、問題を抱える事になりますけどね。
その意味でブッシュが敵視した国家にも対話姿勢を見せているオバマは外交感覚に優れた者と言えるでしょう。
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ほとんどは作り話でしょう。
何せ、2千年も前の話ですので、正しいか間違っているのか
実際どうだったかなんて、ほとんど分かりません。
いわゆるエピソードの大半は後世の人が作ったものだと考えます。
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誰が英雄かは、「誰の立場で作られた話か」によって異なります。
日本で一番有名な「三国志」は吉川英治さんの著だと思いますが、あれは「三国志演義系」なので、劉備が主人公になっています。
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