2012年3月12日月曜日

三国志について 魏、呉、蜀ではそれぞれ軍師の質としてはどこが一番優秀でしたか?...


三国志について

魏、呉、蜀ではそれぞれ軍師の質としてはどこが一番優秀でしたか?



個人的には魏だと思っているんですが、荀彧や荀攸、郭嘉に程昱、司馬懿や賈詡などこの上ない面々だと思いませんか?



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魏ですね。



個人的には満寵を高く評価してます。

蜀を抑えていたのが司馬懿としたら、呉を抑えていたのは満寵です。

蜀より国力が倍の呉を、長きに渡って対峙してきた満寵はもっと評価されてもいいと思います。



質問者様が挙げた軍師も後漢末から三国時代初期にかけて優秀な活躍をした軍師です。

袁紹を退け、群雄割拠の中を勝ち抜き中原を制したことは、

後々晋の天下統一の足がかりになったのは言うまでもありません。

それを支えたブレーンはやはり、魏が白眉なのではないでしょうか。


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kumayamaoさま



別の場所ではありがとうございます。

(詳しくは”騰蛇「乗」霧” 後日談にて)



私信失礼しました。では、本題。





kumayamaoさまが



「蜀はそう言う流れがあまり見られない~」

と言及なさっていますが

これについて、私は

「諸葛亮が自分に権力を集中させすぎた」

のが最大の要因とみています。



彼は先主(劉備)死後

「先帝の恩顧に応えんがため」

「自ら」軍事・政治を見、

後進の育成も自分の丞相府で

「自ら」行っていました。



よく言えば

「責任感が強い」

のでしょうが、悪く言えば

「もうちょっと、他の者も信頼しては・・・」

となります。



魏は主君曹操が

「任せるべきところは思い切って任せる」

決断ができる人間だったので、

他の者もそのやり方にならい、

代替わりしても同じやり方を踏襲し続けたのでしょう。



呉については

「外交に積極的でなかった」

と、よく言われますが、これは

「国内で暴れる異民族(例えば山越など)への対策」

が影響していると思われます。



「三国志演義」ではスルーされがちなので、

ピンと来ない方もいらっしゃるかと思いますが、

「正史」の「呉志」などを見ればお分かりのように、

呉という国は終始この問題に頭を悩ませており、

正直「外交どころではない」部分もあったと思われます。



そういう土地柄から「軍師・将軍を育てる」どころではなかった。

これはやむを得ないことではありますがね・・・。



<追々記>



kumayamaoさま



私の回答へ更なるご指摘ありがとうございます。

参考とさせていただきます。



<追々々記>



houkyo7さまが



「満寵はもっと評価されてもいい」

と、おっしゃっていますが私も同感です。



ただ・・・、これは余談ですが、



西晋に満奮という人物がいました。

彼は風が吹くのを非常に嫌っていました。



ある時、武帝(司馬炎)が窓辺に琉璃張りの屏風を置かせたところ、

満奮が思わず嫌な顔をしてしまいます。

琉璃が透き通っているので素通しと勘違いしたのです。



事情が分かった満奮は

「私は呉牛が月を見て喘いだようなものでございます」と弁解した。

琉璃は今でいうガラスのようなもの。

それを組み合わせた屏風は外が見えるので、風が来ると誤解した、という話。



・・・もう、お分かりでしょう。この満奮は満寵の子孫。

・・・西晋の貴族は軟弱だなあ、風が怖いなんて・・・。

・・・満寵はあの関羽とも互角に渡り合った名将だったのに・・・。



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・・・・・houkyo7さま?



「魏の将」を称えるのに

「白眉」

は・・・・・。



「蜀臣」の「馬良」が由来なのはもちろん承知ですよね?


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魏ですね。魏は優秀な軍師がその後は方面軍司令官として活躍して

います。優秀な軍師は優秀な司令官になり、その司令官にまた若手

の軍師をつけて育成させる。



これを一番システムとして機能させ、成功させていたのが魏です。

蜀はそう言った流れがあまり見られない。国家の規模が魏に比べて

かなり小さいことも関係しているかもしれませんが、彼らは司令官

と軍師兼任で終わってしまっている。



呉の場合は地方領主の寄り合いですので、ある意味それぞれが独立

しており、魏のような優秀な司令官の下で軍師として才能を磨くと

言うような形には成り難かった。そのため軍師が育ち難く、個人の

才覚頼みになってしまっていた。



souka201011_19さん

わざわざのお礼ありがとうございます。蜀の件ですが、確かに諸葛亮

が権限を集中させすぎてしまったことの弊害は間違いなくあったかと

思いますね。



独裁に見える魏の方が実はボトムアップ方式で組織を構築しているの

に対し、蜀はトップダウン式で一人に権力を集中させるなど、こちら

の方が独裁国家っぽくなっているのはある意味皮肉な話ですね。



呉は山越の問題もあったと思いますが、豪族の力が強く縦割り社会で

あったことが大きいでしょうね。ある豪族の後を継ぐのは基本的には

一族の有力者、では魏のように有力な人物をある方面軍の軍師として

配置、とは簡単に行かなかったでしょうね。

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