2012年3月20日火曜日

三国志

三国志

三国志で劉備はなぜ「漢」に関係する名前をつけなかったのですか?なぜ「蜀」なんでしょうか?ちなみに「蜀」とはどういう意味なんですか?(なんか本に書いてあったような気もしますが。。記憶が。。。)


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劉備は皇帝となるにあたって、国号を「漢」としました。

しかし、中国全体を統一する全国政権ではなく、中国のごく一部、辺境地帯を領有するだけの地方政権であることや、その直前の後漢王朝と明瞭な血縁関係がない(遠縁だとされてはいます)ことなどから、王朝名としては「蜀漢」と呼ばれます。



蜀というのは、劉備の最終的に領有した地域の中心地域名です。蜀郡・巴郡を中心とする地域「巴蜀」を領有した地方政権であったことから、また二文字国名が(三国志の中では)避けられたことから、「蜀」と呼んでいるだけです。(前代の「漢」との連続性がないことを強調して、正統性を否定する名称なのかもしれません)

他の二国、魏や呉が国号通りに呼ばれるのとは対照的です。



上の方の、「漢を名乗る訳にはいきません」は間違いで、「漢と名乗っていた」のですよ。



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追加。

当時、中国全体を12の州に分け、さらに120あまりの郡に細分されていました。蜀は「益州」という州の全体と、交州の一部、荊州の一部を領有しました。(間もなく、荊州のほとんどを失陥しますが)

蜀に属する郡として、「巴郡」「蜀郡」「益州郡」などがあった。首都である成都が蜀郡の中にあったこともあり、「蜀(国)」と呼ばれたのでしょう。



ちなみに。

「虫」という文字は、昆虫のことではなく爬虫類、特に「竜の眷属」を指し示す文字だったそうで、太古の昔には必ずしも悪い意味ではなかった。三国時代になると、どうだったか判りませんけども。



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 蜀漢については、前の方が正解。正式国号は「漢」であり、劉備は漢皇帝です。



 歴史的に、漢民族の代表的国号ということで「漢」という名はよく使われました。ざっと、前漢・後漢(ごかん・東漢)・北漢・後漢(こうかん)などなど。

 歴史的に区別するため、また劉備政権は地方の弱小軍閥であったため、中原を抑える「魏」から侮蔑をこめて「蜀」と呼ばれたんです。



 「蜀」という地はなかに「虫」という字が入っているように、地方の蛮族の地と言う意味があります。「蜀錦」で代表されるように、養蚕が盛んであったから、という意味もあったようです。

 戦国期に秦の・・・名は失念しましたが・・・武将が征伐し、秦領に組み入れられました。

 前漢七代皇帝・武帝が、西方の国との通行ルート確保のため、再征伐しています。

 前漢の末、初めて地方軍閥として公孫述が支配し、光武帝を焦土戦術で苦しめました。



 「蜀」というのは東京を「江戸」というような古名で、漢代には「益州」でした。諸葛亮の「出師の表」にも「益州疲弊す」と、あります。

 三国時代以降、中央に従わない、地方軍閥がたびたび存在しました。秦嶺山脈と三峡の険で守られ、割拠しやすかったのです。


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成都を主とするあの地域名を蜀と呼ぶからです。それをそのまま取ったんです。漢にしなかったのは、推測だけど、廃帝にされた献帝への配慮というか漢の再興が目的な訳ですから。漢を名乗る訳にはいきません。

↓そうなんだ?演義の知識にまだ偏ってるな私。

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