2012年3月21日水曜日

三国志の魏、呉、蜀と三国に分裂する前の数年前の歴史を教えて下さい!

三国志の魏、呉、蜀と三国に分裂する前の数年前の歴史を教えて下さい!


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◎kanshinshunjyuさんに賛同します。



こういったところでは的確な回答を得辛いので、歴史書を読むことをお勧めします。

A)岩堀利樹著『正史「三國志」完全版』(文芸社)

B)渡邉義浩著『図解雑学 三国志』(ナツメ社)

をご覧になれば大方のことは分かると思います。



Aは一般の人には入手しにくいのでBがいいかもしれません。



●他の回答の補足です。

①「後漢」という国はこの時代ありません。

『後漢書』は、「後漢・書」ではなく「後・漢書」、つまり「漢書の続き」という意味です。便宜的に漢王朝の後半を「東漢(後漢)」と呼んでいるだけです。



②この時代、「天下三分の計」を最初に提唱したのは諸葛亮ではなく魯粛です。



③「黄巾の乱」は、「住民反乱」ではなく(他の方のご指摘にもあるように)「新興宗教」による反乱です。



④漢王朝が衰退したのは、「宦官」のせいだけではなく「外戚」のせいでもあります(『後漢書』にハッキリと書いてあります)。



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三国時代の前は漢王朝です。

しかし、相次ぐ反乱で漢王朝は衰退し、地方で独立勢力が現れました。

その中に、劉備、孫権、曹操もいました。



曹操はうまく漢王朝を利用し、周りの対抗勢力を滅ぼし、中国の3分の2を手に入れました。

孫権は兄の活躍もあって、中国の呉一帯に根を張り、勢力を広めました。

劉備は各地を放浪するも、赤壁以降に蜀を騙し打ちし、蜀の地を得ました。



曹操が死ぬと息子の曹丕が漢王朝を潰し、魏を設立。

劉備も負けずに対抗する形で蜀(正式には漢)を設立。

孫権は当初、蜀が攻めてくるとの事で魏に仕える姿勢を取ってましたが、蜀を追い返すと、呉を設立。

これにより三国時代に突入です。


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漢という国がありました。

政治が腐って国民が疲弊。大規模な反乱がおきる。何とか鎮圧するが朝廷にもはやリーダーシップはない。

各地を治めるリーダーがどんどん力をつけて、まぁ日本で言う戦国時代みたいな感じになり、争いが続いた結果、勝ち残った3つの勢力が天化を3分割する形になりました。これが基本的な三国志の流れ。



3つにわかれてすぐいっせいに皇帝を名乗ったわけじゃないので、3国に分裂したのをいつととらえるかはびみょーなとこですが・・・



3つの勢力にわかれたときだとするなら、5つの勢力がのこってて、曹操が張魯を、劉備が劉ショウを滅ぼしてたりします。

3つの国ができた(3勢力の君主が全員皇帝を名乗った)ときとするなら、数年前は劉備と孫権が戦ってたり、劉備が死んだりします。


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劉氏の漢王朝は、宦官の台頭と党錮の獄(宦官に批判的な文人が公職追放)で弱体化、この機に乗じ新興宗教勢力の太平道が蜂起(黄巾の乱)、漢王朝の権威は失墜します。

袁紹・袁術等は宦官排除を狙いますが、この際の混乱で董卓が皇帝を抑え漢王朝の実権を握ります。董卓の専横に反対する有力者達は、反董卓連合を結成するも董卓打倒は叶わず、有力者達は任地に戻り以後支那は群雄割拠状態に為ります。



魏成立過程…曹操が皇帝を擁立し勢力拡大、赤壁の大敗後も勢力維持・拡大させます。曹操は、前漢を滅ぼし新国を建てた王莽の革命手順を模倣する形で、皇帝から官位・特礼を受けます。革命準備を調えた曹操亡き後、曹丕が禅譲を受け皇帝に即位します。



蜀漢成立過程…赤壁の戦い後、劉備は益州牧劉璋の救援要請に応じ益州に出兵、劉璋を騙し益州を支配します。劉備は漢中も支配し漢中王を自称、後に曹丕即位の報を受け(勝手に)皇帝に即位します。



呉成立過程…孫策(袁術から独立)の後を継いだ孫權は、赤壁で曹操に勝利します。後に孫權は、魏の皇帝曹丕から位「大将軍・荊州牧・呉王」と九錫を授かり、呉王朝樹立の保証を得た孫權は皇帝に即位します。



呉建国で正真正銘、三国時代に突入です。


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本読みましょう、本を。

最初の回答者さんみたいに「うろ覚えで間違った回答をする」人が必ず出てきますし、そんなのを覚えてもらう訳にはいきませんもの。



横山光輝氏の漫画『三国志』(全60巻)がいいですよ。もしくはその原作の、吉川英治氏の小説『三国志』(全8巻)。

長くて難しいと感じるなら、陳舜臣氏の小説『秘本三国志』(全6巻)とか、柴田錬三郎氏の『英雄三国志』(文庫版全6巻)とか、色々出てますから、書店や図書館でパラパラめくって、お好みのものをお読み下さい。


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正直言って、三国鼎立までのいきさつはかなりあるので簡単に説明します。



昔々、後漢という国がありました。



後漢は皇帝がだらしなく、宦官(十常侍)が勝手気ままに私利私欲を貪り、無茶苦茶な政治をしていたため、大規模な住民反乱(黄巾の乱)がおきて末期的な状況となります。



そこに地方から多数の兵を率いてやってきた董卓が武力を盾に、宦官を倒します。

しかしながら武力を盾に皇帝(廃帝)を暗殺して自分の思い通りになる別の皇帝(献帝)をたて、今度は董卓が暴虐な政治を行い、国はさらに荒廃します。



董卓を討つべく、曹操、劉備、孫堅(孫権の父)が立ち上がります。

董卓は討伐軍から逃亡しますが逃亡先で暗殺され、拉致されていた皇帝は曹操に保護されます。



曹操は皇帝の権威のもとに中央の政治をとりますが、劉備や孫権は曹操に対抗して独自の勢力を築きます。



実質的には皇帝に等しいかそれ以上の存在の曹操でしたが、名目上は漢の臣としての立場を崩しませんでしたが、曹操の息子曹丕が、皇帝の位をむりやり譲り受け魏という国を興します。

それに対抗して劉備は蜀、孫権は呉の皇帝を名乗り、三国が鼎立します。



その後はなんやかんやがあって魏が蜀を滅ぼしますが、魏は過去にそうして皇帝を無理やり譲り受けたように、晋の司馬炎という人物に無理やり皇帝の位を奪われ滅びます。

その後、晋が呉を滅ぼして晋が中国を統一します。


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もともとかの有名な袁家が治めていた漢王朝というものが有りました。



その袁家が曹操の手によって滅ぼされました。

その語、曹操、孫権、劉備たちが戦っている途中に諸葛孔明が「天下三分の計」を編み出したことから三国に分かれたといわれています。



たしかこんな感じでした。

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