三国史ではなく、三国志なのはなぜですか?
三国史は書かれなかったんですか。
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まず、『三国志』が古くは何と呼ばれていたかですが、
1、『晋書・陳寿伝』
「撰魏呉蜀三国志、凡六十五篇(魏呉蜀三国の志を撰した。全65篇)」
2、『宋書・裴松之伝』
「注陳寿三国志(陳寿の三国志に注釈を書いた)」
3、『上三国志注表』(裴松之による表)
「注陳寿国志(陳寿の国志に注釈を書いた)」
4、『文心彫龍』
「陳寿三志(陳寿の三志)」
1、2で「三国志」という言葉が出てきますが、3、4を見ると1,2の「三国志」という言葉は書名ではなく「魏志、蜀志、呉志という三つの国志」という意味のようです。
『華陽国志・陳寿伝』には
「寿乃鳩合三国史、著魏呉蜀三書六十五篇、号三国志。又著古国志五十篇(陳寿は三国の歴史を集め、魏呉蜀三書65篇を著した。号して三国志という。また、古国志50篇を著した)」
と書かれています。
この記述を見ると、「魏志」「呉志」「蜀志」ではなく「魏書」「呉書」「蜀書」という書があり、これらを合わせて『三国志』と命名したようにも思えます。
しかし『旧唐書・経籍志』には
「魏国志三十卷」
と書かれています。
また清代の『四庫全書総目提要』には
「三国志六十五巻(略)凡魏志三十巻、蜀志十五巻、呉志二十巻」
とあります。
これらの記述をまとめると;
1、陳寿は恐らく『魏志』『呉志』『蜀志』という単独の各国志を書いた(『晋書』『文心彫龍』の記述等が「三つの志」という表現をしている)。
『旧唐書』『四庫全書』等を見ても、『魏志』『呉志』『蜀志』というのが元の名称と思われる。
2、但し、『華陽国志』に有るように『魏書』『呉書』『蜀書』というよばれ方もあった。
*現在は中華書局で発行されている『三国志』『三国志集解』を見ても『魏書』『呉書』『蜀書』となっています。
3、三種類の「志」が合わさって『三国志』と呼ばれるようになった。
というのが『三国史』でも『三国書』でも『三国記』でもなく『三国志』と呼ばれる理由です。
では「志」とは何かですが、この「志」は「三国の英雄たちの志」という意味ではなく「誌」と同じ意味です。
「誌」とは「記録する。記述する」という動詞と「記録した物」という名詞の意味があります。
『三国志』の「志」とは「三国の歴史を記録した物」という意味です。
上述の『『華陽国志』や陳寿が書いたとされる『古国志』、明代の小説『東周列国志』等、「志」がつく史書は『三国志』以外にも有ります。
この「志」は現在でも「地方志(又は地方誌。地方の歴史や風物を記録した書籍)」というように、局地的な記述をした物に多くつかわれます。
三国に分裂状態だった魏呉蜀各地方の記録ということで陳寿は「史」でも「記」でもなく「志」を使ったのだと思われます。
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もともとは、三国志でも三国史でもなく。
「三国書」
と呼ばれていたようです。
『華陽国志』
「三国志」の物語を補強する有力な資料。355年に東晋で編纂された書物には
「寿乃ち三国の史を鳩合して魏・呉・蜀、三書65篇を著し、三国志と号す」
とあり、その時代にはすでに三国志と呼ばれたいたとの見方もなりたちます。
しかし、241年ごろの
呉の陸雲が兄の機に与えた書中には
「陳寿の呉書」
の字が見える。
ということは、宗・元の時代と明の南監本には、魏書等と記していて官僚や知識人など一般に広くは「魏書」「呉書」「蜀書」「陳寿の~書」ということで「~書」という名称で呼びならわされていたことが窺えます。
北監本。民の時代の北京の国子監で刊行されたもの
つまり国が出版したウチの北京の出版局で作られた本から「志」として改めたものが、それ以降は官製の出版物はそれにしたがって「三国志」と言い習わして使い始めたようです。
でも「三国志」と改めたのは
それは、当時の北魏の正史である魏収が著した「魏書」などの他の書物との混同を避ける目的で用いられたという、当時の便宜上の目的が大きな理由のようです。
(*´ω`)
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さんごくしの”志”は”史”ではありません。理由は諸説あるようですが”志”は記録という意味もあるらしいので”三国の歴史 「三国史」”ではなく”三国の記録 「三国志」”となるようです 。
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