2012年3月23日金曜日

三國志。曹操が張済の甥である張繍と戦ったとき、失った人材を教えていただけませ...

三國志。曹操が張済の甥である張繍と戦ったとき、失った人材を教えていただけませんか。



曹昂だけは思い出しましたが。


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197年、張繍の族父の張済は南陽郡の穣を攻略中に、

流れ矢に当たって戦死したため、張繡がその後を継ぐこととなります。

宛に駐屯し、劉表と手を結んで曹操に対抗しますが、

曹操軍に攻め込まれて降伏を余儀なくされました。



ところが、曹操が張済の妻であった未亡人を側妾にしたために恨みを抱きます。

曹操は、張繡が恨んでることを知ると、密かに張繡を殺害する計画をたてました。

張繡はこの計画に気付くと、

参謀の賈詡の進言を容れて、曹操に奇襲をかけます。

この奇襲で、張繡は、

曹操の長男の曹昂や甥の曹安民、

当時の曹操の親衛隊長であった典韋などを含む多くの将兵を討ち取り、

勝利を得ました。



【曹昂(そうこう)】

曹操の長男。生母は劉夫人。字は子修



敵に襲撃された父曹操を無事に逃すため、自らの馬を曹操に差し出しました。

(『三国志』魏書武帝紀注『世語』)

このため、曹操は無事に逃れることができましたが、

曹昂は張繍軍の攻撃を受けて殺されてしまいます。



「曹昂の命は曹操の命と比べるに足らず! 今曹操に命ず!

この絶影にまたがりこの場を生き延びよ!」

「蒼天航路」前半の名場面ですね。



曹昂の死を知った育ての親の丁氏(丁夫人)は曹操を恨み、

自ら離別して実家に戻りました。

曹操は、慌てて丁氏に謝罪して戻って来るように願いますが、

丁氏は二度と曹操の下へは戻らなかったと言われています。



若き日の曹操の、ただの奸雄ではない人間臭さが表れていますね。

「蒼天航路」のこのくだりの曹操の未練たっぷり度が笑わせてくれます。



【曹安民(そう あんみん)】

曹操の弟の子供として史実に登場します。曹操の甥です。

(陳寿『三国志』武帝紀、建安2年の条)

ただ、曹操の兄「曹嵩 」の子供との説もあり、

兄の早死で孤児となった曹安民を、

曹操が自分の子供のように可愛がったともいわれています。



【典韋(てんい)】

最初、張邈に仕え、

誰も持ち上げられることができなかった牙門の旗を片手で持ちあげたほどの怪力。

夏侯惇に見出され配下となり、たびたび戦功を挙げ、司馬となりました。

酒食を好み、飲み食いの量は人の倍で、

御前で食膳を賜るときは左右から酒を注ぎ、

給仕を数人に増やしてやっと間に合うほどだったといいます。

大きな双戟と長刀などを愛用し、

「帳下の壮士に典君あり。一双戟八十斤を提ぐ」とはやされました。

演義では、怪力から曹操に『古の悪来のようである』と言われています。



曹操を逃がすべく部下とともに死にもの狂いで戦い、

典韋が守っていた陣門に敵は侵入できませんでしたが、

多くの箇所に傷を負った典韋は、敵に突進し、数人を殺してから、

目を怒らせ口をあけて大声で罵りながら死んだとされます。



演義では張繍配下の胡車児に酒に酔わされた隙に武器を奪われ、

敵の武器を奪って戦うが敵の弓兵の一斉射撃を全身に浴び、

直立不動のまま息絶えたとされています。



【絶影(ぜつえい)】

曹操の愛馬です。

走り去る時影すら残さぬ速さで走る馬とされ、

アラビア産の黒毛の大型の馬とされます。

額に矢を受けながらも、曹操を助けたといわれます。

その後、「爪黄飛電(そうこうひでん)」が愛馬となったようなので、

この戦いで、絶影も死んだのだと推測します。

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