2012年3月23日金曜日

三国志演義にて、曹操が逆臣とされる理由は何でしょうか?

三国志演義にて、曹操が逆臣とされる理由は何でしょうか?

旧重臣を遠ざて国政を行ったことが、主家を奪うことになるんでしょうか?

主家って?国家は皇帝の所有物?作中でしきりに憤ってるのが、どうにも理解できなかったので。

帝国を混乱させた原因は旧重臣なのだから彼らをそのまま要職におく方が危険、というか責任を取るのが筋だと思うのですが。

混乱が収まれば前と同じ体制でポストが用意されてるハズ、それをしない曹操は間違ってる!って暗殺計画を練るのは現代人の眼からとても正統とは思えなくて・・・


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●後漢の政治が混乱したのは、幼くして帝が即位することが多く、そこに宦官・外戚とが権力争いをしたため。

外戚は、皇帝の妃の一族で、幼帝に代わって政務を行って権力を握ります。その皇帝が成長して自分に権力を取り戻そうとするとき宦官の力を借ります。本来、宦官は後宮の雑用係ですが、そのような政治の表舞台に出てくることにより権力を持ち始めて好き放題します。(宦官と外戚の争いは、何進と宦官の争いを知っていれば解る話だと思われます。)

それを儒教の学問を身につけた官僚が批判します。それを嫌った宦官は、彼らを政界から追放します。「党錮の禁」といいます。

その後「黄巾の乱」「董卓の専横」となってさらに後漢は弱体化し、各地に群雄が割拠します。

董卓の死後、曹操により後漢皇帝は保護されます。曹操陣営としては、後漢を補佐するという大義名分を手に入れますが、この頃には、ほぼ後漢は再生不能状態となり、後漢に替わる王朝への歩みを始めます。(魏公、魏王となる)

●そのあとは、多少端折りますが、魏王朝の成立→司馬氏の台頭→晋王朝の成立→晋の統一となります。

晋の時代に、「正史三国志」が成立し、そこでは後漢を次いだ魏、晋の司馬氏が仕えた魏が正統となります。

話は変わりますが、劉備は漢の血族を名乗り、皇帝に即位し【漢】を引き継ぎます。←ここ重要。

ただ上記のように、「正史三国志」は魏が正統であるため、即位の地に照らし合わせ【蜀】とされます。

魏と晋は、前王朝から皇帝の位を【禅譲】によって譲り受ける事によって正統を主張します。

劉備は、血統をもって正統を主張します。漢を奪われた劉備は漢を受け継ぎ、諸葛亮は劉備の意志を継ぎ、中原回復を目指して行動を起こします。(北伐のことです)

本拠地を大まかに捉えると魏は北方、劉備は南方となります。

歴史として、南北朝時代、宋(北宋・南宋)時代は、それぞれの漢民族王朝の位置により、曹操の魏が正統か、劉備の方が正統かが議論されます。

●最終的な決定は、南宋の朱子による諸葛亮の評価(忠臣・大義名分)の影響により、その朱子学の影響下で「三国志演義」が完成して劉備=善、曹操=悪の図式が完成します。



●これが曹操が逆臣とされる理由です。また、皇帝を保護して曹操が政務を行うことは皇帝の権力を奪った状態なので、それを皇帝側に取り戻すために外戚・董承らが暗殺計画を実行しようとします。ここが疑問の端緒なのでしょうが、董承らは混乱させた人物ではありません。むしろ正常に戻そうとしましたが力がありませんでした。力ある群雄に保護を求めましたが、保護されるだけではなく実権も握られてしまったというところです。まだ後漢に求心力があると考えていた(のか?)皇帝側と、少しの大義名分を元に権力・地盤固めをして王朝交替を計画した(のか?)曹操側との認識のズレがあったということです。



●儒家の孟子が言った「易姓革命」(天命があらたまって王朝が交替する)の考えからすると、曹操のあり方は悪くはないのですが、朱子の考えでは悪くなるのです。

南北分裂期(南北朝・南宋)は北方を異民族に支配されます。漢民族は南方に追いやられます。その境遇が劉備・諸葛亮らの立場と似ているのです。曹操は北方を支配した異民族扱い。北方を取り戻す為の行動評価と自らの願望と重ねる。



詳しくは、

金文京「中国の歴史 三国志の世界」「三国志演義の世界」

渡邉義浩「図解雑学三国志」「図解雑学諸葛孔明」「図解雑学三国志演義」「諸葛亮孔明 その虚像と実像」

満田剛「三国志 正史と小説の狭間」

などを読んでみてください。



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例えば唐の李淵も挙兵しましたが、関中を収めた頃には、それ以前の乱で江南に逃げていた隋の煬帝は家臣に殺され、「隋王朝」は消滅していました。であるので、彼は「逆臣」とは呼ばれません。



後漢が正式に滅亡したのは曹操の息子、曹ヒの時代です。つまり、曹操在世中は後漢王朝があったわけであり、彼は後漢の役人を経て、魏公、魏王になったわけです。

その彼が、王朝の力をそぎ、自分流の国づくりを進めれば「逆臣」呼ばわりされるのも当然でしょう。

曹操自身は、自分が後漢の臣として育ったので、後漢を滅亡させることにためらいがあったといわれますが、息子にはそんな感傷がないから滅ぼしたのです。



「国家は皇帝の所有物?」建前上はそうです。「すべての土地と、人民は皇帝のもの」というのが「皇帝専制」と言うもの。この思想は、清が1911年に滅ぶまで変わっていませんよ。

すべての政治実権は皇帝が握る、皇帝の側近がおこぼれをもらう・・・それが王朝体制というもの。今風に言えば「既得権益・抵抗勢力」です。そっちから見れば、現体制をリセットして新体制を築こうとする一派は「逆臣」になるでしょう。

客観的に、「どっちが国家のためか?」と問うても、この場合は無意味です。


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詳しい事は前の回答者の通りですが

少し加えると、蜀書にはこう書かれています。

『献帝舅車騎将軍董承受帝依帯中密詔、当誅曹公』

ようするに、献帝は董承を召見し、別れ際に帯を外してそれを劉備にやるのですが

この帯の中に曹操誅殺の密勅を入れています

結局は、帝も関与していたわけです。

勅ですから、この時点で曹操は逆臣になります。



ただ、献帝にはすでに力がなく曹操は、董承らを処刑した後上手くまとめたようです

逆臣の意味ですが、ここでは帝の意思と反すると捉えるのが妥当です

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