三国志・・教えて下さい。。
ゲームの三国無双4をしています。。。
ちょっとでもそこらへんの歴史がわからないと面白くないので
わからないとこはネットで調べたり人に聞いたりしてるんですが、
なかなか・・・^^;教えて下さい。。
1)趙雲(チョウウン)は顔もよくて、でカナリ武術にも優れていたと聞きましたが本当でしょうか??
2)呂布は凄く強かったみたいですが結局、最後には誰に負けて死んだのでしょうか??
3)最後は、魏・呉・蜀どこが勝ったんですか?連合とかあってよくわかりません。。
よかったら教えて下さい*^^*
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簡単に話しても三国志の知識がないと理解できませんので説明が長くなります。
語る前に、『正史三国志(以下、正史)』』と『三国志演義(以下、演義)』についてどの程度知っているのですか?
簡単に説明しますと、
『正史』・・・歴史書ですが全てが真実とは限りません。魏贔屓。
「魏国志」30巻(「本紀」4巻、「列伝」26巻)、「蜀国志」15巻、「呉国志」20巻、計65巻。
『演義』・・・劉備を主人公として描いているため、蜀の人々は多く誇張されて描かれ、逆に魏の人々は曹操が悪役とされているほか、曹真や曹純、夏侯尚など、実際は有能な人物であったのにも関わらず無能のように描かれる人物も多く、特に諸葛亮と関羽、趙雲に対する誇張が著しい。
ちなみに、三国無双シリーズは『三国志演義』派です。
①『正史』・・・姿や顔つきが際立って立派だったそうです。
『演義』・・・端正な顔立ちという設定です。
『正史』・『演義』いずれも非常に勇猛かつ義に篤い、武芸の達人でとして描かれています。
劉備が後に『蜀』という国を建国しますが、超雲はその中で五虎大将軍(関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲)に任命されています。
②『正史』では、
198年、呂布は袁術側につくと小沛の劉備を攻撃。曹操は夏侯惇を派遣して劉備を救援させたが、呂布の部下高順に敗退した。
そこで曹操は自ら大軍を率いて徐州に攻め込んだ。
呂布は優れた武勇を見せていたが計略に疎く猜疑心が深く、部下の諸将を統御できず連戦連敗となり下邳城に追い詰められた。
包囲3ヶ月、冬季に水攻めにあって呂布軍の士気は阻喪し、ついに将軍の侯成・宋憲・魏続が反乱を起こし陳宮を捕縛して降伏した。
追い詰められた呂布は敵の包囲が厳しくなるのを見てついに降伏し、陳宮・高順とともにさらし首の刑にされました。
『演義』では、
曹操らの軍勢に追いつめられて守城戦時に自分だけ豪勢な食事などをし、部下を殴りつけていたりしていたため、酒に酔い寝ていた所を侯成・宋憲・魏続に捕らえられてしまう。
曹操に命乞いをするものの劉備に「丁原や董卓の時のように裏切るかもしれませんぞ」と言われた。呂布は劉備に「この大耳野郎!」と怒鳴りつけたが結局は陳宮・高順とともに斬首された。
③『正史』・『演義』共に、魏・呉・蜀のいずれでもありません。
魏の『司馬懿』は曹操死後は魏の中心人物として権力を拡大し、諸葛亮の北伐を退けたなどの軍功により、魏の中で他を圧するものとなった。
それを疎まれて一時期閑職に遠ざけらたが、息子の『司馬師』・『司馬昭』の助けを借りてクーデターを起こし魏の権力を完全に掌握した。
また、司馬氏に権力を集中させるなど政治的な面でも実権を握り、のちに『司馬昭』が晋国王になりました。(晋は魏の属国ということです。)
265年にその子の『司馬炎』が後を継ぎ、魏の元帝より禅譲(代わりに皇帝になるということ)を受け王朝を立てたました。
要するに下克上です。(これにて魏は滅亡。)
280年、残る『呉』を滅ぼして『晋』は中国を統一しました。
ということで、『晋』です。
滅亡した順は『蜀(263年)』→『魏(265年)』→『呉(280年)』です。
真三国シリーズキャラクターの『貂蝉』・『祝融』は『演義』にでてくる架空の人物であり、『星彩』はゲームのオリジナルキャラです。
ちなみに、『正史』は晋時代に書かれ、晋の禅譲前の魏を中心に蜀や呉を見ているので、魏よりな内容になっていますよ。
最後に本来、『三国志』と呼ばれるのは陳寿による『正史』であり、『演義』を『三国志』と呼ぶのは誤用です。
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個人的な意見がかなり入ってますが
1. 顔については不明。
というのも、判断する材料がもはやない。
ただ、腐女子受けするためにそういう設定をコーエーがしたためそう思い込んでいる浅慮な人間が多いのは確か。
武術に優れるというよりは戦術に優れるの方が妥当かもしれません。
長坂単騎駆けがありますが、創作話が先行して、実像とはかけ離れているだろうというのが現状のようです。
彼自身が一騎打ちで敵将を討つという話自体があまり無いというのが裏づけではないかと言われています。
2. 最後は劉備・曹操の共闘により倒されています。
一般的には呂布は裏切りの士と言われていますが、自分から進んで裏切っているというのはほとんどありません。
書き並べてみるとこんな感じ
・丁原を裏切った際は、董卓側に言いくるめられた。
・董卓を討った際は、王允の策による
・劉備から城を奪った際は、参謀の陳宮の入れ知恵
こんな感じです。
因みに、ビホウも散々な評価ですね。
関羽の要請を拒否して、呉に逃れたという事実しか見られてない。
本当に不忠の士であれば、徐州で劉備一党が散逸した際に、どこかへ逃れるなりしていたでしょう。
長坂の際も、寡兵で敵を食い止めようとし奮戦してますし。
不忠の士ならこの時に逃亡するか何かしてるでしょう。
3. 晋
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1)姿、顔つきは際立って立派だったとあるだけのようです。いわゆるかっこいいのかは分かりません。
曹操軍の大群に劉備が負けたとき、単騎で劉備の夫人と子供を救出しています。
2)敵の計略で篭城をしてしまい、曹操に水攻めを食らって、もう勝ち目はないと思った部下が参謀 の陳宮を捕らえて降服し、呂布も城の包囲がさらにが厳しくなるとあきらめて降伏しました。(正史)
人の才能大好き曹操は呂布の
「あなたが歩兵を率い、私が騎兵を率いれば天下を取ることは簡単だ」という発言で殺すのをため らいましたが、劉備の
「董卓を裏ぎったのは誰かお忘れか?」発言によって結局呂布を処刑しました。
3)最後に勝ったのは魏がベースになっている晋という国です。
曹操の子、曹ヒの代で力をつけたシバイは政争に巻き込まれて一時失脚しますがすぐに盛り返して
朝廷の実権を握ります。そして曹家の皇帝は若死にが相次ぎ、力をつけすぎた司馬家を討とうと 皇帝自ら出陣し、返り討ちにあって逆に殺されるという事件も起き、曹家の皇帝の求心力はほとん ど無くなります
そうして司馬一族が力をつけ、シバイの孫の司馬炎が禅譲を受け皇帝になり
魏が晋へと変わります。
そのちょっと前に蜀は魏に攻められ降伏して滅亡。
このしばらく後に呉は晋に攻められ降伏して滅亡。
連合してたのは魏に対して呉と蜀が連携して立ち向かわなければすぐに滅びるからです。
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私もちょっと・・・。
1.顔については記述がありませんから、正確なところが分かりません。日本では、「いい人」なので、二枚目ということになってますね。ちなみに中国の小説(三国志演義)では、「二重あご」と書かれています。軍人としては優秀な人ですが、個人的武芸はよく分かりません。
2.結局力で呂布を倒すことが出来た人はいなかったのです。曹操は水攻めで、呂布得意の騎馬戦術を封じたのですが、呂布がやけになって、酔っ払って居眠りしたところを、裏切った家臣に捕らえられたのです。
3.結局、三国どこも統一できませんでした。魏の家臣であった司馬炎が曹家からクーデターで国をのっとり、蜀・呉を滅ぼして統一しました。国号を「晋(しん)」(歴史的には西晋)といいます。
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私も詳しくは知らないのですが、お答えさせて頂きます。
1.顔は良いです、武術にも秀でていました
2.結局部下に裏切られて、曹操に処刑されました
3.魏です。が、途中で司馬氏のクーデターが起こり「魏」が「晋」になりました。
蜀は劉禅が堕落して破滅の一員をつくり、呉も後継者問題で内部が衰退しました。
こんなところですかね。
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1顔は知らないけど豪傑だし、真の武士です
2味方に裏切られ、居眠りしてる所を捕らえられて、曹操に処刑される
3魏の臣の司馬炎がクーデターを起こして晋国を作り、蜀を倒し、呉を倒し天下統一。
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