2012年3月12日月曜日

三国志魏書高句麗伝に 靈帝建寧二年、玄菟太守耿臨討之、斬首虜數百級、伯固降、屬...

三国志魏書高句麗伝に

靈帝建寧二年、玄菟太守耿臨討之、斬首虜數百級、伯固降、屬遼東。熹平中、伯固乞屬玄菟。



後漢書高句麗伝に

建寧二年、玄菟太守耿臨討之、斬首數百級、伯固降服、乞屬玄菟云。

とあります。

気になるのは

前者の伯固降 屬遼東 熹平中 伯固乞屬玄菟



後者の伯固降服 乞屬玄菟云

です。



書き出しは建寧二年(169年)と同じなのに、

前者は遼東郡に属して、後に(172年)玄菟郡に属することを求めたとあるのに対し、

後者は建寧二年に玄菟郡に属することを求めたようなニュアンスになっています。



どうして両書にこうした違いが生まれたのでしょうか。


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『三国志』魏書 高句麗伝

「霊帝建寧二年玄菟太守耿臨討之斬首虜數百級伯固降屬遼東嘉平中伯固乞屬玄菟」

「霊帝の建寧二年(169)、玄菟太守耿臨之を討ち、虜し(捕虜としたり)、首を斬ること數百級。伯固降り遼東に屬す。嘉平中(172~178)伯固は玄菟に屬すを乞う」



『後漢書』東夷列伝 高句麗

「建寧二年玄菟太守耿臨討之斬首數百級伯固降服乞屬玄菟云」

「建寧二年(169)、玄菟太守耿臨之を討ち、首を斬ること數百級。伯固降り服して玄菟に屬さんことを乞うと云う。」



上記が「『三国志』魏書 高句麗伝」と「『後漢書』東夷列伝 高句麗」の漢文と読み下しです。



ご質問の部分が『三国志』と『後漢書』で違う理由は以下の2つが考えられます。



1、『後漢書』の漢文の最後に “云” という文字が使われていますね、

通常、漢文で “云” または “云々” を文末に使った場合、これは伝聞による記事であることを示します。

つまり、意味としては「伯固は降伏して玄菟郡に屬(ツ)きたいと乞うたといわれる」、或いは「…乞うたと誰かから聞いた」といった程度のものなので、確実な史料・記録等によって書かれたものではない、という事です。

陳寿が西晋王朝で『三国志』を編纂した後、五胡十六国時代が始まり西晋は滅ぼされ、建康に逃れた琅邪王睿によって東晋王朝が建国され、その東晋から更に王朝交代して南朝宋に至っています。つまり、陳寿の『三国志』~范曄の『後漢書』の間には大きな争乱の時代があったわけで、文字資料・記録類等の一部散逸があったと考えられます。

なので、『三国志』には詳しく、一部散逸もあった『後漢書』ではその部分は伝聞形式で、経過の一部を省略した文で載せた、それが両書の記述の違いとなったと見る事が出来ます。



2、『三国志』は3世紀後半に西晋の陳寿が編纂したもので、『後漢書』は五世紀に南朝宋の范曄が編纂したものです。編纂された時代も、王朝も、執筆者も違います。

執筆者が違ったり、時代が違ったりすれば、史書編纂のもととなる記録や史料類も違ってきますし、高句麗に対する関心度も三国時代の魏と、南宋とでは大違いです。

また、例え同じ記録・史料を使用したとしてもそれを読む人によって解釈も違ってきますし、解釈が違えば書く事も違います。

別のご質問である『後漢書濊(ワイ)伝』の回答でも説明させていただきましたが、『三国志』と『後漢書』では明らかに解釈の違いが出ている箇所もみられます。

このような違いは、中国史では良くある事です。例えば、『南史』と『北史』、『旧唐書』と『新唐書』、『旧五代史』と『新五代史』、同じ事柄を書いたものでも、内容はかなり違っていることもあり、それ程珍しい事ではありません。それが両書の記述の違いを生じさせているということも有りえます。



何故か?ということの理由は上記二つが考えられますが、

『三国志』には “伯固が降って遼東に属したのち嘉平年間になって玄菟に属した”

と書いてあるのに対し、『後漢書』では “遼東に属したのち嘉平年間になって” を省いた文章で、最終的に “玄菟” に属したことは書かれているので、基本的にはそれ程違ってはいないと見る事もできます。

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