三国志と三国志演義の書かれ方の違いについて
三国志と三国志演義ではいろいろな違いがあることは、
この中国史カテゴリーの過去問を見るとわかるのですが、
出来事の違いではなく、
人物の書かれ方が違うという観点で教えてもらえませんか。
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三国志演義は史実から1000年以上も後の明代の成立とも
言われてるため、人物像の形成にも
各所に当時の道教面の影響も伺えますね。
道教は国教という厳格な宗教の一面を持ちながらも
中国の古典文学小説世界では西遊記や封神演義は言うに及ばず
水滸伝にも深く影響を与えており、上記の作品群に比べて史実に
忠実な三国志演義にも相当な影響を与えている部分があります。
主人公格の一人で人気も絶大な諸葛亮が呪術を行なう際には
北斗七星に祈りを捧げる場面も見かけます。
明の永楽帝は事のほか玄天上帝という道教神に心酔しており
玄天上帝とは四神のうち、北方玄武を人格化した神様なのですが
この北方守護神の加護を諸葛亮が求めているあたりに当時の
国家権力との結びつきさえも上記の事柄から感じるところです。
北極星には人の運命は支配されるとする思想(=北辰信仰)もあるため
それに相応しい人物として人気者の諸葛亮が抜擢されたのかもしれませんね。
事実、演義の諸葛亮は見ている側が腰を抜かしかねないほどの先見に優れ
読心術まがいな先読みまでしてしまいます。
道教神としても完成された神格を持つ、関羽にも意図的に五行配置の
目立つカラーリングが施された外見(赤面の顔)、所有物(赤兎馬、青龍偃月刀)が
備えられておりいかにも成熟した道教の影響を色濃く受けているという感が満載です。
三国志演義では
神仙の左慈もまた、葛洪の「神仙伝」から記述に極めて近い人物像になっており
道術を駆使し、様々な人物を翻弄します。
これらの影響は道教の発展進化による時代から見た独特のアレンジであり
治病集団でしかなかった三国時代の道教教団を記録した当時の史実からでは
形成不可能な人物像です。
恐らくこのあたりが三国志演義の「七実三虚」の「三虚」の真髄部分とも思えます。
ただの嘘ではなく、詳しく吟味していけば国教である道教にも
興味を持たせるペーストが加えられてるあたりにセンスを感じます。
惜しむらくはそこで巻き添えを食ってしまった史実評価では優秀とされた
人物も居る事ですけどね。
この部分を虚構の一種として切り捨ててしまうのではなく
道教を通じ、そこから半開きになっている他の文学作品への
興味の扉に繋がっていると思うと
演義評の人物像というのも奥深く魅力ある記述だと私は思っています。
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「三国志演義」は物語ですので、主役がいます。劉備と諸葛亮ですね。
主役は物語の登場人物の中で最も優れた人間でなくてはなりません。そのため、主役と絡む事が多い人物は「常に主役に出し抜かれるキャラ」「なかなか優れた人物だが主役には及ばないキャラ」として描かれる傾向があります。主役を引き立てるために脇役が存在するのです。
例えば呉の周ユ。正史では赤壁の戦において、劉備や諸葛亮などの力は殆ど借りずに「そこで黙って見てろ」とでも言うかのように曹操の軍を撃退します。また、人物としても優れたエピソードが書かれていますが、これが「演義」では優れた指揮官で水軍を率いて戦うが、結局諸葛亮が手助けしてくれたおかげで勝つ事が出来たかのように描かれます。しかも諸葛亮に常に出し抜かれ頭に血が上って死ぬ、などという描かれ方は将に道化的と言えます。
同じように魏の大将軍曹真も同じ様な描かれ方をします。史実では孔明の北伐をアッサリと撃退するのですが、演義になると司馬仲達が失脚して曹真が総指揮官になったとたんに孔明は北伐を開始し、曹真では全く歯が立たず結局司馬仲達が呼び戻される。そうこうする内に曹真は病気となり、諸葛亮からバカにするような手紙を送りつけられて、頭に血が上って死ぬ。
全く同じパターンですね。
諸葛亮が病没する時の魏の指揮官は司馬仲達であるので、司馬仲達は優れたライバルとして描かれていますが、それ以外はみんな諸葛亮の引き立て役です。周ユや曹真もある程度は「優れた人物である」と前置きをする→諸葛亮がその相手を手玉に取る→諸葛亮は比類無い優れた軍師である、という論法です。
そのため劉備・諸葛亮と絡みが多かった魏の武将は「演義」では道化的な役回りにされて非常に低く評価される傾向がありますね。逆に、蜀と殆ど絡む事がない張遼は非常に優秀な武将として描かれます。張遼は確かに優秀だったのでしょうが、張コウだって優秀だったのだと思いますよ。
「正史」は人物伝の集合ですから、その伝の主役となる人物はそれぞれその伝ではキチンと正当に評価されていると言えると思います。
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