2012年2月22日水曜日

三国志の日本伝承について

三国志の日本伝承について

三国志は日本にどのように伝承したのでしょうか?


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歴史的には「正史」の伝来が古く、

「演義」は遅れること900年たってからです。

通常、日本で三国志というと、「三国演義」を指すことが多いですね。



『正史三国志』の伝来時期は

正確には判明していません。

760年に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を

「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、

すでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていた事が窺われます。



760年淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして

吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させています。



769年称徳天皇が大宰府の請に応じて

『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』を下賜しています。



藤原頼長は読了した漢籍として

『三国志』帝紀十巻を挙げています。(1143年)



林鵞峰以降、江戸期の漢詩の題材としても三国志の人物が好まれ、

特に関羽と諸葛亮が至忠の烈臣として讃えられました。



明治以降の正史に基づいた史伝として

内藤湖南『諸葛武侯』(1897年)、

吉川幸次郎『三国志実録』(1962年)があります。

しかし、吉川三国志などの急速な普及により三国志といえば、

『三国志演義』の物語を指すのが通常でした。



状況が変わってきたのは、『世界古典文学全集24 三国志』全3巻

(筑摩書房 1977-1989年)で『三国志』が初めて日本語訳され、

1993年に文庫版が発売されてからといわれます。

これにより、一般の三国志愛好家が正史を読むことができるようになり、

多くの人々が『三国志演義』により固定化されていたイメージに

疑問を持つようになったとされます。





『三国志演義』の伝来時期は

確定されていませんが、

江戸初期には『演義』受容の記録が漸く増加し、

詩文などの中に演義の影響を受けたものも見られます。

林羅山は1604年までに

『通俗演義三国志』を読了したとされます。

また、1616年に徳川家康の遺志により駿府の文庫から

水戸藩・尾張藩へ移された書籍の内に『演義』があったとされます。



『三国志演義』の日本語訳として、

1689年~1692年に湖南文山『通俗三国志』が刊行されています。

これは日本語完訳された初めての外国小説であり、

満州語版に次いで2番目の外国語訳『三国志演義』とされます。

同書は以後も再刊を繰り返し、

葛飾戴斗の錦絵を付した池田東雛亭編『絵本通俗三国志』

(1836年~1841年)が人気を博し、

明治には幸田露伴『新訂通俗三国志』(1911年)があります。



明治以後には『通俗三国志』以外にも諸種の訳が現れ、

明治期には久保天随『新訳演義三国志』(1912年)が有名です。

戦後は小川環樹・金田純一郎『三国志』(1973年 改版88年)、

立間祥介『三国志演義』(1988年)、

井波律子『三国志演義』(2003年)、などがあります。



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文献に三国志関連の表記がされているのは、藤原氏の『藤原氏家伝』に、宿敵であった蘇我入鹿の政治を、「董卓のような暴政」と表現しています。これが760年のことです。

その前にも遣隋使(600~618年)を代表として、中国との交流はあるので、おそらく三国志を知っていた人はいると思いますが、日本人が「文書」を残すようになったのが、『古事記』『日本書紀』の720年頃なので、文献として残っていないのではないかと考えます。

有名な遣唐使(630~894年)として、752年出発→754年帰国で中国に渡っている人々がおります。この時代は、天平年間で、「天平文化」という、中国を通して外国文化がどんどん取り入れられたのですが、そのきっかけはやはり文章として、記述して残す文化が日本の中で出来上がったことが大きな影響をもっています。

だから、今までは文化であったり、仏教であれば「高僧」を連れてくるものが、これ以降は書物(歴史書や仏典)が輸入されることが多くなります。

よって、このあとは、天皇が褒美に三国志を授けたなどの表記が出てきます。

で、760年に戻りますが、この「蘇我入鹿は董卓のような暴政をした」の表記がされた同じ年に、大宰府にいる「吉備真備」のところに、天皇が舎人を派遣し、兵法を学ばせたという記述がでてくるのです(孫子や諸葛亮八陣などの陣法)。

吉備真備は、地方豪族出身から、中央の大臣までに大出世したたった2人のうちの一人(もう一人は、学問の神として有名な菅原道真)で、「日本最初の軍師」などと言われる人で、出世の契機となったのも藤原仲麻呂の反乱を鎮圧したり、軍功によるものが多いのです。

この吉備真備が、実は752~754年の遣唐使の一員なのです。

よって、吉備真備は、朝廷の命令で「兵法を学ぶために」遣唐使の一員となり、実際に唐で、いろんな兵法とそれに関する歴史を学んで(兵法を知る上でも歴史は必須の教養です)帰国した。もちろん三国志も学んできたのは間違いありません。

ちなみに、このあと朝廷が、東北、関東への圧力を強め、平定(坂上田村麻呂の蝦夷征討が798年)していくのですが、ここに吉備真備が持ち帰った、兵法が活かされているのも、まず間違いないと思われます。

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